高校23期会

★牧陵会事務局からのお願い

 住所が判明している方には、「牧陵新聞」等の牧陵会活動報告や、同期の幹事の方から同期会開催等のご案内状をお送りします。

 牧陵会では、牧陵会活動への温かいご理解と、活動への積極的な参加をいただくため、宛先不明となっている会員の方々の現住所を確認する作業を進めております。
 このリストをご覧になられたご本人から、あるいは、同期生の現住所をご存知の方は、移転先住所等の下記変更事項を牧陵会事務局までご連絡いただければ幸いです。

《ご連絡いただきたい事項》
 【卒業期】・【氏名(旧姓も)】・【住所】・【電話番号】・【メールアドレス】等
 ※ 卒業期は、「緑高同期会」のページの早見表をご参照ください。

 個人情報を一般に公開することはありませんが、同期会開催のために要請があれば、同期会幹事に提供する場合があります。
 同窓会名簿は、インターネット回線に接続していないパソコンで厳重に管理しており、冊子としての名簿は、平成10(1998)年版以降、発行しておりません。

 宛先不明会員の一覧表は、個人情報保護のため、お名前はカッコ内に1字のみ表記させていただきました。

 牧陵会事務局
  〒231-0027 横浜市中区扇町3-8-6
  ℡045-664-9020
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【学園紛争の時代3】

学園紛争3

 前回は事態の推移ばかりの話でしたので、ここで私自身がどう感じたかを書いてみたいと思います。実はちょうどそのとき、私は中央委員でした。別になりたくてなったわけでなく、1年の担任だった大学先生の方針で、各種委員はアミダで決められたような記憶があります。そんなわけで何もわからず中央委員になってしまったのですが、委員会での3年生と生徒会顧問の応酬を見てびっくりしたものです。先輩たちが先生相手に対等に議論しているように思えたのですね、さすが高校生ってすごいな、と感心したものです。そんなわけで制帽問題にも講演会問題にも中央委員としてその成り行きを目撃してきたわけで、当然関心も一般生徒よりは少しは高かったのでしょうね。

 羽仁五郎氏の講演は、ノンポリ生徒だった私にもそれなりの影響を与えたようで、講演会のあと、その速記録を買ったのは前回書きましたが、さらに名著とされる岩波新書の「ミケランジェロ」と、出たばかりの勁草書房の「都市の論理」(まあこの本の宣伝をしに来たようなもの)を読んだものです。もちろん書いてあることをちゃんと理解できたとは到底思えませんが、羽仁氏の書き方はなかなか煽動的であり、面白いことは確かでした。特に自由な市民を象徴するのが都市広場というもので、広場がない都市は都市なんて言えない、その点、日本の都市は広場らしいものはない、なんて話には結構興味を持ったものです(後日談:そんなところから西洋の都市の広場に憧れて、後年、あちこち見て回ったものです)。

 まあそんなこんなでもともと歴史が好きだったこともあって、このあと2年になってから、中央公論社が出していた「世界の歴史」全16巻を読み始めます(余談ですが、後年、鉄道ファンにはおなじみの宮脇俊三氏の本を読んでいたら、彼が中心になってこの出版を企画編集していたらしいですね。東大の史学科卒ですものね。さらに余談ですが、彼の友人かつ隣人が北杜夫という人で、その縁で有名な「どくとるマンボウ航海記」が書かれて、中央公論としては破格のベストセラーになり、宮脇氏の出世につながります)。とても面白く、大学は歴史科に行こうかな、なんて思ったこともあるくらいですが、たまたま数学が面白くなり、そっちに行くことになります。他に羽仁氏が言及していた野呂栄太郎「日本資本主義発達史」が緑の図書館にあったので、一応借りて読み出したことがあります。ところがどうも社会科学の本というのは、私の頭脳では理解できないせいか、ほとんど興味を見いだせず、あまり読まないまま返却したものです。まあこんなわけでせっせといろいろな本を読んだわけですが、政治的な「行動」をすることはなかった、つまり刺激を受けたけど、それが「行動」にはつながらず、読書につながったというわけですね。

 さてさらにその後、羽仁氏は希望ヶ丘高校で講演をしたと前回お伝えしましたが、その様子を「希望ヶ丘百年史」から拾ってみたいと思います。こちらも生徒主催で開かれたようで、こうあります。
安田講堂事件の衝撃さめやらぬ1969年2月15日、著名な反体制思想家羽仁五郎の『大学について』と題する講演会が開催された。当日はマラソン大会終了後の土曜日であったにもかかわらず、3年生を含む五百余名の生徒が参加し、さらに終了後の座談会にも二百余名が参加するという活況であった。そもそもの発端が生徒有志の要求であり、生徒会総務と職員側の数次にわたる折衝を経てようやく実現にこぎつけたものであることを考えると、アパシーや『神高病』を自ら打開しようとする志向も、また少なからず存在していたということができる。」

 余談ですが、時代背景の一面として紹介したい話があります。ネットに載っているもので正確かどうかの保証はないですが,次のようにあります。
 「1967年4月20日、日大経済学部の新入生歓迎会で講師に招かれた羽仁の講演を、体育会学生と応援団が乗込み、妨害した。執行部学生に暴行を加え、歓迎会の解散を認める署名を強制した。羽仁に対して、ヤジや罵声は収まるどころかいっそう増し、『アカ』『ジジイ引っ込め』などの罵声を受けた。羽仁は演壇上に立ち往生し、身の危険を感じて退避した」

 余談ついでにもう一つ。羽仁五郎の妻の説子さんの母は羽仁もと子さんといい、自由学園をいう学校を創設、今もその最初の校舎が池袋駅のすぐ南に残っています。「明日館」という校舎で、帝国ホテルを設計したあのフランク・ロイド・ライトの設計です。とても素敵な建物で、見学もできます。ちなみに国の重要文化財で、建築の世界では超有名です。

 さて話を進めましょう。翌年、昭和44年初頭の状況を思いだしてもらいます。なんといっても最大の話題は東大安田講堂の攻防戦、そして東大入試中止という史上初の事態が起こりましたね。そして21期生が卒業するときの卒業式でも混乱が起きました。前回紹介した反戦高委は、実は3年生が主体でした。校史には「21期生10名、22期生1名、23期生4名であったといわれる」とあります。ですから2月からは3年は自由登校なので、活動家たちの照準は卒業式に向けられることになります。校史によると

「当日は、山手駅から学校までの電柱に、『卒業式粉砕』と書いたビラが貼られ、登校してくる生徒たちに『君が代日の丸反対』という趣旨のビラ約300枚が配布された。また、開式直前になって一部の生徒が校長室に入り、校長に対して君が代斉唱中止を要求した。校長室でのやりとりのため、開式が約10分遅れたが、式はとどこおりなく進行し、君が代斉唱となった。全員起立で、君が代を歌い始めたとき、数名の者が『君が代斉唱反対』『形式的卒業式反対』『私は君が代を歌っていません』などと書いた巻紙をひろげ、他の数名は起立せず斉唱を拒否した。来賓の挨拶は省略されたが、卒業式は上の他は大きな混乱もなく、約40分で終了した。

 式後、各クラスで担任から卒業証書が渡された。職員の事前の申し合わせでは、騒いだ生徒には証書を渡さないということだったので、混乱もなく式が終わって、担任の安堵はひとしおであった。こうして高校21期399名は卒業していった。

 翌3月2日の読売新聞京浜版は、写真入りの7段抜きで、『君が代斉唱で拒否騒ぎ—緑ヶ丘—出席父兄呆然』『式場に反対のプラカード』という大見出しの記事を掲載した。式場の様子や式の経過を報じた後、『同校では、一応大きな混乱もなく卒業式を終えたことを一応の成果と見ているが、今後も思想的に未熟な高校生が過激な行動に走らないよう、話し合いによる指導を続けていく方針』と伝えている。こうして公になったためか、県教委から、君が代反対に加わった者の氏名を調査して報告するようにと命じてきた。学校は調査の上、県に報告したが、それ以上のことはなかった。」

 全国的にもこのときの卒業式は荒れた学校が多かったようですが、一方、希望ヶ丘の卒業式は、希望ヶ丘百年史によると

「本校卒業式は表面上、平穏裡に挙行された。卒業式の簡素化要求という形で、各クラス2名の代表から構成される準備委員会の手で答辞が作成されたこと、『仰げば尊し』が式次第から削られたこと等に若干の改善がみられる」

 こうして昭和43年度は終わります。次回はいよいよ我々が2年生になっての話、そしてあの修学旅行の話になります。

2018/2/20
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

【学園紛争の時代2】

学園紛争2

 では「制帽廃止のお願い書」の問題からいきます。
「校史」によると

 「緑高においても、他の多くの高校と同様に服装規制の緩和の要求が紛争への導火線となった。具体的には、男子生徒の制帽廃止要求であった。このことに関する問題提起は、夙に昭和42年度の「緑ヶ丘学生新聞」に二度にわたって、論説が掲載されるなどの形でなされてきたが、生徒会の関係機関に正式に取り上げられたのは、昭和43年1月29日の中央委員会においてであった。」

 当時在校されていた方はご存知だと思いますが、制帽があるといっても実際にはかぶってない生徒も多くいました。当時の生徒会調査では約3分の1が登校時無帽、希望としては6割が無帽を希望していたとのことです。職員もこの実態を前に、いずれ自由化に踏み切らざるを得ないとの認識はあったものの、全体としては時期尚早と考えていたようです。

 そこで生徒会に対しては、「要求書」でなく「お願い書」という形で出すよう指導したようです。これは当時の英芳博生徒会会長&早川修中央委員会議長の連名で出されました。
 この前の段階で、当時の金子校長の指示で県下のいくつかの高校の状況を調査した結果が「校史」にのってます。

 ①着帽が望ましい:県立商工
 ②生徒の自由:県立川崎、川崎工業、市立川崎、市立橘(片倉注:すべて川崎市内)
 ③無帽:貿易外語、港北(昭和44年開校予定)
 ④無帽を黙認:希望ヶ丘
 ⑤検討中:鶴見、多摩、小田原、逗子

さてそのお願い書ですが、翌年1月の職員会議で次のことが決まったようです。

 ①無帽の黙認
 ②ただし生徒心得を早急に検討して改正した上で、生徒に正式に伝える
 ③集団行動(社会見学、修学旅行等)では、従来通り着帽

 こう決まったものの、実際にはまだ生徒全体としての関心が低い、ということで改正への動きは保留されたようです。

 この問題は一見、紛争と無関係のようですが、それを紛争への序章ととらえるべき、との指摘がある教諭からなされています。後に神奈川県高教組の委員長となる岩佐先生は生徒会顧問として直接生徒と対応された人ですが、「校史」によるとこう語っています。

「制帽自由化要求そのものが紛争を直接引き起こしたというべきでなく、意図的に紛争を引き起こそうとしていた意識層に利用されたと捉えるべきであろうことは事実が明らかにしている」

 次にこれに関連して「羽仁五郎講演会」に移ります。実はすでに密かに結成されていた「緑高反戦高校生委員会」(以下反戦高委)が生徒会執行部にいた一部の生徒(民青系らしい)と秘密裏に連絡をとり、生徒会組織を通じて「制帽自由化運動」を、裏では反戦高委が「講演会企画委員会」を構成して、生徒主催の講演会開催を要求するという作戦のようだったのです。

 講演会は毎年恒例の学校主催行事で、この年は12月に旺文社の人を招いて「進路と学習」という題で行われる予定だったのですが、それがさきほどの「お願い書」と同じ日に、この企画委員会から生徒主催の講演会実施周知のためとしてポスター掲示の許可を生徒会顧問に求めてきたのです。しかも日時は12月の弁論大会終了後と既定のことと書かれてあったようです。

 顧問側は講師未定などを理由に1月に延期するよう説得したようですが、結局企画委は無許可のままステッカーなどで宣伝し、同時に講師の人選をしていったようです。この時点での講師候補は宗像誠也、家永三郎、羽仁五郎など5名だったといいます。

 教員側はこれを知って、生徒会の5000円の予算では来てくれそうにない人ばかりだし、もう12月の予定は埋まっているだろうから、実現は無理だろうと思っていたようですが、これが甘かったのですね。なんと企画委は12月4日に中央委員会を顧問に連絡なしで開催し、羽仁五郎に決まったと報告、中央委員会の諒承を求めたのです。こうして「高校生活について」と題する羽仁五郎講演会が生徒段階では決定されました。

 これを受けて生徒指導部の教員たちは、協議していく中で、事態収拾のためには受け入れもやむを得ないとの判断になり、可否を決定する臨時職員会議が12月11日に開かれます。論議は白熱、5時間に及んだそうですが、結論としては認めることになりました。金子校長はこの会議で次のような所信を述べたそうです。

「①全職員が結論に従って十分努力すること
 ②どこまでも生徒のためを考えてやること
 ③伸ばすべきものは伸ばし、抑えるべきものは抑えること」

 そして12月21日当日、羽仁氏は山手駅から歩いてきて校門を抜け、職員と言葉を交わすことなく直接体育館に入り、講演を始めます。
その内容は「校史」によると

「『あくまで参考として聞いてほしい』と断りはしたが、きわめて鋭いものであった。最初に明治百年に日本がすべきことは、中国朝鮮との国交回復であり、それが人間を人間扱いしないファシズムからの訣別であるという。このファシズムこそ、人間ひとりひとりの権利を守ろうとする市民の論理を圧倒する独占資本の論理だと規定し、大学紛争は大学生が独占資本の論理とたたかって学問の自由を守ろうとしているものだと説明した。」

 明治百年、そうか、今年が百五十年ですから、今から50年前のことなんですね。まあこの講演は一部の生徒には大きな感銘を与える一方、勝手なことを言っているだけだと思う生徒も多かったとも言えます。

 そしてこの講演は速記部の生徒によって速記印刷され、確か50円で売られたと思います(私は買いました)。ところがこの講演録がある保護者から評論家の細川隆元に流れ、その結果、翌年2月2日のTBS「時事放談」で彼がこの講演会についてふれ、

「こんな(原注:紛争の火に油を注ぐような、の意か)学校はつぶしてしまえ」

と発言したのです。このときにはそれほど問題にならなかったようですが、3月発行の「週刊新潮」に「革命煽動家羽仁五郎一家の貴族的生活」という記事が掲載され、その一部に緑高での講演が問題にされるに及んで、波紋は大きく広がっていきます。金子校長のインタヴューも掲載されていたようです。その内容は「校史」によると

 「羽仁さんを呼ぶ企画をしたのは学校ではなく、生徒会なんです。最初は“授業時間は割けない、費用がない”と認めなかったのですが、生徒たちが“放課後でよい、費用は生徒会でもつ”と条理をつくしてきましてね。“講師は”と聞くと“羽仁さんに電話したらタダで行ってやると言った”というわけです。

 いよいよ断る理由がなくなった。それでも許可を出す職員会議は5時間もかかりました。そりゃ先生の中には羽仁さんを個人的に支持する人もいるでしょうし、なかには古いと思われるのがいやで、羽仁さんに興味をもっている人もいるでしょう。しかし羽仁さんの話を生徒に聞かせるかどうかについては慎重ですよ。でもムゲに断って、不満が出てそれが大きくなってとんでもない方向に発展しては困る。それにしても前もっておだやかに頼みますよとお願いすべきだったかなあと残念に思っています。」

 この後、なんと校長は県会に呼ばれることになります。「校史」によると

「この『週刊新潮』」の記事などが発端となり、3月18日県会文教常任委員会で、羽仁五郎講演(2月15日に希望ヶ丘高校、3月に法政工業でも行っている)が問題にされ、金子校長が喚問されたが、3月20日の職員会議に報告された限りでは『十分事後指導をすること』という結論で終わり、喚問は一度だけで済んだ。」

とあります。実際、そんな軽いことで済んだかどうかはわかりませんが、校長はそう報告されたらしい。教員もほっとしたかもしれませんね。(以上)

 これで昭和43年は終わりましたが、これからが本番ですからね、だいぶ長くなりそうです。

2018/2/9
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

【学園紛争の時代】

学園紛争

 高校23期の片倉です。今、私の手元に「横浜三中・三高・緑高六十周年誌」という本があります。昭和58(1983)年の創立60周年に合わせて編集され、この年の11月に発行されたものです。A5版560ページ、厚さ3.4cmに及ぶ大部なもので、とても立派な本に仕上がっています。中身も大変読み応えがあるもので、次の9つの章からなっています。

 1章「横浜三中草創の時代」
 2章「昭和初頭の時代」
 3章「戦時下の横浜三中」
 4章「校舎も校庭も消えた敗戦の時代」
 5章「新制高校発足の時代」
 6章「昭和三十年代の緑高」
 7章「学園紛争の時代
 8章「安定の中の緑高」
 9章「緑高の現況と展望」

 ここで我々23期生のいた時代にちょうど対応するのが第7章「学園紛争の時代」です。まさに我々はそのまっただ中にいた学年になるわけです。当時のことを部分的にでも知るのは21期から25期の皆さんだけで、その他の期の皆さんには直接は関係ないことですが、あの当時実際にどういうことが起きたのか、私の筆力では到底書き尽くせない内容ではありますが、これから何回かに分けてこの本(以下「校史」)と私のおぼろげな記憶や感想を元に書いていきたいと思います。
 まずどんな事態が起きたのか、主要な出来事を校史から拾って時系列でお示ししましょう。ちなみに我々が入学したのが昭和43年、卒業が46年です。

昭和43(1968)年
 9月22日 緑高反戦高校生委員会が秘密裏に発足(以下反戦高委)
 11月28日 「制帽廃止のお願い書」が生徒会から職員会議に提出される
 12月21日 講演会企画委員会により「羽仁五郎講演会」実施される

昭和44(1969)年
 3月1日 卒業式での「君が代斉唱拒否」運動(翌日に新聞記事)
 5月   緑高祭での「三里塚の夏」上映
      (この頃、大学紛争が鎮静化する一方、高校紛争は逆に活発化し、10月には川崎高校、鶴見高校、
      希望ヶ丘高校で封鎖という事態に発展)
 10月29日 2学年(23 期生)の修学旅行の帰途、瀬戸内海の船上での団体交渉
 11月   CCU結成
 11月26日 「問題提起(5項目要求)」ビラ配布される
 12月  (核心といえる時期)
   2日 校庭での生徒集会
   6日 クラス討議
   9日 期末テスト初日なるも中止され、クラス討議と生徒総会
   10日 生徒総会
      (以後、午前中はクラス討論や数クラスによる分科会、午後は生徒総会といった毎日が続く)
   18日 校長、全校生徒を集め、授業再開の方針、期末テストは1月に延期して実施
   19日 授業再開されるも正常に授業がなされたのは一部のクラスのみ
      生徒総会で教員案の受け入れが投票で決定
   22日 生徒総会が流会(3年を中心に欠席者多数)

昭和45(1970)年
 1月7〜10日 順延していた期末テスト実施→テスト拒否者続出
 1月19日 生徒職員双方の改革案
 3月1日 卒業式での混乱(翌日に新聞記事)
      (翠嵐高校と川崎高校では卒業式を中止)
 3月23日 成績判定会議で大量の原級留置者決定
 4月6日 入学式場にデモ隊突入
 4月10日 職員室逆封鎖
 4月14日 生徒総会→この日から秩序回復、平常に向かう

 どうでしょうか、思い出されたでしょうか。最初は21期生が行動し、そのあとを受けて一つ飛んで23期生が主体となりました。あの時期、ご自分がどう考え、どう行動したかも記憶が甦ってこられたことと思います。私自身でいいますと、基本的にノンポリでしたが、ただ流されていたというよりも、一体何が起こっているのかを知りたくて、いろいろなところに顔を出して見聞してきたように覚えています。友達経由で手に入れた民青新聞や前進(中核派の機関誌)、解放(革マル派の機関誌)を家で親に内緒で読んでいたことを思い出します。ただ実際に行動することはなく、日和見と言われても仕方ない態度だったと思います。しかしこの紛争を通して得た経験は、実際に自分が(全くなるつもりのなかった)教員になったあと、教育観や日頃の行動に大きく影響していたんだなあ、とつくづく思わされます。

 また校史は教員が書いたわけで、当然ながら我々生徒からは窺えなかった教員側の対応が詳しく記されており、とても興味深く読みました。私自身がその後、いわば同業者になったわけで、そういう教員側からの視点を、実際に教員として感じたことも合わせて紹介できると思います。
 では次回から何回かかるかわかりませんが、詳しく記していきたいと思います。とりあえず次は「制帽廃止のお願い書」と「羽仁五郎講演会」を予定したいと思います。

2018/2/3
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

思い出の記3 藤田衆 級友たち

友達

 新入生の時期と言うのは高校生活に初めて接したときで、見知らぬ人が多いわけでもあり、また3年生のように文系理系に分かれていないからより多くのバラエティある級友に出会った。1年のクラスでまず目立ったのは「たかし(漢字はいろいろだったが)」という名前が多かった(少なくとも5人はいた)ことで、何故か長身が多かったが彼らが互いにたかし、たかしと呼びあうので少なからず混乱した。なかでも手島隆君小川貴志君とは仲が良くなり、これに山本君鶴君をくわえてよく放課後にトランプをやった。鶴君は卓球をやっていたスポーツマンでおしゃれな今考えるとかなりかっこいい少年で(当時は男の美形などと言うものは考えたこともなかった)しゃべる時にもいつも形を気にしているところがある。彼に一番感心したのは国語の時間に横光利一の『蠅』が取り上げられたことがあって、一体これは何が言いたいのだろうと僕が口にした時正確には覚えてないが「運命というものは誰にも予見できないままにいろいろな人に襲い掛かってくるということさ」と言うような内容のことをサラっと言ってのけなるほど文学というものはこういう風に読み解くものか(つまり作者の視点を考えると言うことだと思う)と眼を開かれた気がした。

 僕は文学部に進むのだがその文学解釈の根底には常にこの経験があったと思う。彼がナポレオンのやり方を教えてくれたのだが、それは巷でよく行われるものと違ってオールマイティ、すなわちスペードのエースをいつ出してもかまわないという特別に強い切り札とするものだった。これは5人でやるにはちょうど良かったのだが、やがて鶴君があまり参加しなくなって4人になってしまうとナポレオン側に有利になりすぎると言うこともあって手島君がコントラクトブリッジを教えてくれた。彼は親が航空会社に勤めていて休みにはアラスカに行って鮭釣りをしたり子供のころハワイにいたりしたものだから英語は苦もなく操っていたし、西洋流の遊びにも詳しかったのだ。

 後に彼が家に遊びに来た時一緒にテレビを見たらアメリカンフットボールをやっていて、ぼくにはちんぷんかんぷんだったが彼はこういうことなのだと説明してくれた。それでたちまち分かるほど簡単ではなかったが、その後アメフトを見て楽しむようになったのは彼の影響である。とにかくこれでブリッジが盛んになった。提案者の手島君がうまいのは当然として、小川君が同じくらい強くなった。どうも勝負事になると強いという人はいるものだと思う。僕も山本君もそういう方は駄目だったと見えて間もなく勝ち組と負け組がはっきりしてきたが高校生では負けても楽しく遊べればよかったのだ。この時に妙な新語を使うのが流行り、僕は国語の時間に「夏川を越すうれしさよ手に草履」という俳句を習ったのをきっかけに、「こすうれしさよ」→「このうれしさよ」→「この…さよ」という連想から手に草履と言う言い方を単なる強調の副詞のように使ってみた。それでとりわけトランプが配られたときに自分の手を見て「このひどさ手に草履だね!」などと言うようになった。小川君はこれに対抗するように「ゴリラの逆襲」という言葉を流行らせたが、もとはむろん「ゴジラの逆襲」で、これを一字変えることでなんとなくユーモラスな雰囲気を出すことができた。ブリッジをやっている時最初に宣言組に押しまくられた阻止組が後になって残ったカードで押し返す時に「ゴリラの逆襲!」と言いながらカードを切ったのだ。

 小川君についてはスポーツ大会での激走も記憶に残る。50m走だったと思う。同走には陸上部の安藤君がいて(彼が体育の時間で模範としてハードルを跳んで見せた時初めて見た級友たちはその美しいフォームに感嘆した)優勝候補と思われたのだが、スタートで誰かと接触して転んでしまった。すると小川君が長身を生かしてきれいに両手を振りながら圧倒的な一位で走りこんできたのだ。手島君は頭も良く(東大理1に進学)スポーツも万能だった。良く覚えているのは蹴上がりをすることになった時3人ひと組になり、僕ともう一人は支えてもらって何とかクリヤしたのだが手島君を支えようとすると、「蹴上がりくらいに支えなんか必要ない」と言って軽々とやってしまったことである。この二人がサッカー部に入ったのはしたがって必然だったのだろう。確か山本君も一緒に入ったと記憶している。彼はうらやましいくらいきれいにウェーブした髪の毛をしていてこれは僕ですら美少年だなと思った。いかにも甘えん坊と言う風貌で言葉などもそんな感じがあふれていた。ただ、当時僕は女子にあまり興味を持っていなかったために(今から考えれば不思議だが)山本君がどのようにその美男子ぶりを持って女子生徒と付き合っていたかは全く知らない。

 音楽と言うのがスポーツやトランプに次いで当時級友との共通の場になったと思う。フォーク全盛のころでギターを弾いたりする人は多かった。PP&Mが好きだったが、当時の僕の小遣いでは自由にレコードも買えなかった。その時級友の一人(申し訳ないが顔は鮮明に思い出すものの名前が出てこない)が、それも隣の子に借りたLPを何枚も貸してくれた。彼はPP&Mのことになると相当なマニアでLPの名もきちんと「See what tomorrow brings」とか「In the wind」とか原語で呼んでいた。

 しかしクラスにギターが持ち込まれた時にそれを演奏して見せてくれたのは田中君で、それもVery last day, Man of constant sorrowのようなかなりマニアックなファンでないと知らないような曲をやって見せたのだ。他にJoan BaezのPortland Townのような難しい曲のスコアも見せてくれた。そういう状況を見て津田君が3人で一緒に学園祭でフォークをやらないかと持ちかけてきた。高石ともやのLPを貸してくれてこれでコードを取って見てくれないかと言うのでやってみて初めて、プロと言うものはこんなに高い音域で演奏しているものだということが実感できた。結局学園祭のことは実現しなかったのだが津田君の万能ぶりも見事で、彼は1年生の音楽のテスト(田頭先生は何をやってもいいという試験を実施していた)でクラリネットを演奏したし、2年生では友達にトロンボーンなどの応援を頼んで自分ではドラムをやったのだ。ドラムソロと言うのは自分では全くできないし、いかにも即興と言う感じがうらやましかった。津田君はバレー部の部員だったからスポーツ大会のバレーの試合では大活躍だった。ただ、部員は1チーム一人しか出られずBチームに回されたので面白くなさそうだったがこのチームはほとんど彼一人で持っていた。スパイクは一人で打っていたし、反対側を向いて妙な回転の付くサーブを打つのが力があるわけではないが変化して取りにくいのが印象に残っている。この時僕も出ていて最後に相手のサーブをミスして負けることになってしまったのが残念だった。

2018/1/29
記事作成者 高校23期 藤田 衆
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

思い出の記2 藤田衆 (先生方

校長先生

 前回の記事の後池田会長より当時の職員在籍表をいただきいくつか誤りが判明した。ますもと覚えていた体育の先生は瀬下先生であり、瀬下とされていた数学の先生は下村先生だった。この先生は肌が弱いので指にテープを巻きつけてチョークを握っていらした。小さい体育の先生としたのは岡村先生である。この人と加藤先生、それから女性の松下先生とであの体育館の壇上に上がり、体育祭のための踊り「松島~の」という民謡を模範演技してくれた時のことが最も印象深いのだが、この民謡は最後が「ありゃりゃりゃりゃ~」という掛け声で終わる。その時の所作は示されていないこともあって皆てんでに頭上で両手を振り回したりしておどけた。加藤先生が苦笑いしながらあそこでは何もしないで静かに終えるようにという指示を出された。化学の豪傑張りの先生は中村順二先生だった。この人は修学旅行の時博多で駅では立ち食いそばが、町にはこれこれ言う店があってビーフシチュー定食がおいしいよと教えてくれ、駅ではほとんど時間もないのに立ち食いそばを小川君がかきこんでいたし、自分など夕食で腹いっぱいだったのに関君ほか数人がシチュー定食を食べに町へ出た。前に漏らした先生としては地理の小泉先生に関して、少し太っていらした記憶があるのだが、生真面目な割に請けを狙ったようにアメリカの農業地帯の話で「豚が丸々と太り」と説明なさったので皆思わずふいてしまった。ある時授業中に紙飛行機が黒板の前あたりを飛んで先生が誰の仕業かと尋ね、誰も出ないと男らしく名乗りなさい(女の子はこんなことをしないと最初から思っていらしたのだろう)というと潔く小川君が前に出た。決して爆発することなく静かな口調でとがめられたことを覚えている。

 先生方のことを話すならやはり校長先生のことを外すわけにはいかない。入学した時の先生は金子先生で、しっとりとした風貌が哲学者のような紳士だったし、話すことも味があって校長のように普段生徒と接触しない人としては例外的な人気を保っていた。一年の終わりには退任されたのだが、その時のお話が印象的で、評論家の友達がいる、朝の四時かそこらに起きて本を読み始める。そのことは人によって仕事の時間は違うのだから驚かなかったが、読んだ後四時間ほど考えるという話に感心し、人の作品にコメントするためにはこれくらいしなくてはならないんだと思ったとおっしゃった。この人に比べて後任の中村先生は風采も普通の方だったし、何より紛争と重なってしまったという不運に襲われた人だったが(紛争についてはまた項を改めたい)世界史の桜井先生の元同僚で、先生は校長室に入るなり「中村さん」と呼びかけたら居合わせた教頭(二人いて確定できないが清田先生ではないかと思う)が「校長先生にお話があるんですね。」とやんわりたしなめたという。この教頭先生は一度三年生の時誰かの代わりにやって来て世界史を教え、中国の古代王朝が秦、前漢、新、後漢と移ったのをとらえて「しんからかん、かんからしん、しんからかんと鳴り渡る」という説明をした。後になって清水君がこういう全体の流れのような解説をしてくれた人は今までなかった、さすがに教頭だと思ったと話していて、なるほどなと思ったのを覚えている。

2017/12/14
記事作成者 高校23期 藤田 衆
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

思い出の記1(先生方

先生イラスト

 私は記憶力は良い方だと思うのだが、最近のこととなると「毎日が新しい」と自嘲したくなるほど忘れている。むしろ高校時代の思い出の方が鮮明なくらいだと思うけれども、これもいつ霧のごとく薄らいでいくかもしれないと思うので、覚えているうちに少しでも残しておきたい気がしてきた。昭和43年に蒔田中学から緑高に進学したのは5、6人に過ぎなかったが私はもともと大鳥小学校、1年生の時だけ大鳥中学校で過ごしたこともあって緑高は地元の感覚があり、入学した時も顔見知りが多かった。最初の担任は生物の故高津先生だった。ずいぶんと赤い顔だと思ったことを覚えている。今思えばお酒焼けだったのかもしれない。さんづけはしないよと言って名簿を読み上げ始めたのだが私のところに来て「衆」という名前が読めなくて「藤田…君」と言ってしまってから何と読むのかと(単にシュウなのだが)尋ねられた。常に穏やかに話される人格者だったが、一度だけ、実験をグループでやっていた時少し騒いでいたグループがあったのに急に雷を落としたことがあった。ご自分でも地声は大きいのだが、怒ると気分がよくないし、酒もまずくなるから怒らせないでくれと事後に頼んでいた何となく恥ずかしそうな姿が目に浮かぶ。この日には生徒会主催の新入生歓迎会で何人かの先生の紹介があった。最初に紹介されたのは名前を忘れてしまって申し訳ないが数学の先生で、実はYMCAの数学教室でお会いしたことがあり、その時円周率の30桁までの覚え方を教えてくれたのだが、まさに円周率の覚え方を教えてくれる先生として紹介された。マシュケナダがサックスとトロンボーンで演奏された。その次にスポットライトに照らされて「その先生は去年の4月にやってきました。」(これは当時はやっていた『ケメ子の歌』の出だし「それは去年の5月のことでした」のもじりだったと思う。)という芝居がかった演出にふさわしい女優のようにきれいな女性が現れたのだが、それが古典の和田先生だった。声もきれいで、話し方も凛としてカッコ良い方だった。この美女にふさわしい曲ということでウエストサイドのマリアが演奏された。最後に紹介されたのはすのこを作ったりされるという変わった紹介をされたが名前も変わっている大学先生で、この時は似顔だけだった記憶があるのだが、世界史を少し伏し目になりながらひたすらすごい記憶力を駆使して宙でしゃべっていたのが印象的である。同じ世界史の桜井先生が、今日大学先生は愛犬が病気なので休まれたが、あの人は自分が病気なら出てきて授業をやるだろうと言われたこともあった。この日の紹介は以上だった。

 1年生と3年生で担任だった高津先生についてはまた別に話す機会もあろう。2年生の担任は体育の加藤先生だった。この方ももうだいぶ前になくなってしまわれたのが、それほどの御歳でなかったと思うので惜しまれてならない。まじめ一方の方で、体育の時間よりも保健の授業の方が印象があって、紛争のころクラスの委員が二人ほど、クラス討論のために保健の時間をもらえませんかと持ちかけたところが、いやだよ、これは僕の時間だし、英語や数学と違って週に1時間しかないのだから一こまでもなくなると大変なのだとお答えになられたのがよく人柄を表している。その先生でも一つだけ肩の力を抜いたエピソードがあって、遠足の時マイクが回ってきて、ローンレンジャーというマスクマンの西部劇があったのを真似し、今のは小学校低学年用だからこれからが高校生用といわれて、映画『シェーン』の主題歌を歌われたことがあった。身長は高かったがなにがご専門なのかはいまだによくわからない。当時他の体育の先生はますも先生という方がいて大きな体格で野球ではないかと思っていたがそれも確かではない。もう一人小さな先生がいたが、この人には柔道を習ったのが印象的で柔道の先生ではないかと思っていたが、それも定かではない。体育の授業と言えば一つ、50メートル走の測りあいをするというのがあってこのとき私の担当は女の子だったが、同走の子が途中でやめてしまったのに気がそがれたのとかわいい女の子だったので顔ばかり見ていたということがあってストップウォッチを押しそこね、いい加減に6秒8とか何とか言ったところ、監督していたますも先生が、そんなタイムで走れるのは全学でほんの数人しかいないぞ、嘘だろうと見抜かれてしまったことを覚えている。この体力測定では肺活量の検査で女の子が測定員で、私がやったらグーッと持ちあがってすごい値だったので喜んだら、ああねじを締め忘れていたと言われ、測り直したところ、今までで最低と言われてみじめな思いをしたこともある。

 数学の先生はビッグマウスで愛想よくしゃべる石井先生と、対照的にひたすらまじめにきれいな字を黒板に連ねていく瀬下先生がいた。数学は中学までは得意だったのだが、高校に入った途端できなくなって、やはり自分は理系ではないと思い知らされるきっかけになった。ましてこれを使う物理は苦手であったが、当時文系でも国立を受けようとするとこれが必要だったので文系の子を集めて補習をしてくれた先生がいた。残念ながらこの先生も御顔は思い浮かぶのに名前が出てこない。化学の先生は対照的にあぶさんのように、酒を飲んだまま授業をやってでもいるんじゃないかと思わせるような豪快な話し方をされるこれも名前を忘れてしまった先生で、学生が間違えると「あ~あ、これでも高校2年生」というような慨嘆をクラスを回ってそこらじゅうで発する(つまり皆間違えていたわけだ)。地学の八木先生はひょうひょうとして面白いことをサラっっという方だった。「日がサンサンと輝き」という駄洒落が得意だったのをよく覚えている。

 国語ではまず鶴見先生というかなり年取った先生がいた。生徒が間違えてクラスの者が笑うと怒ったが自分が間違えたとき「こういうときは笑っていいんです」と言われたので皆その言葉がおかしくて笑った。美人の和田先生の授業はひたすら待ち遠しかった。そういう経験は小学校から大学まで他にはなかったと思う。それから指田先生と言う人がいてとぼけた話し方が人気だった。兄貴の子供をいじめて「さっし兄ちゃんなんかだ~いっきらい!」と言われたというような話を授業中にされていた。もう一人かなり年配で頭がつるつるの先生がいたと思うのだがこれも名前を忘れてしまった。この先生が、日本史の時枝先生と言うのはあの有名な時枝文法を書いた人の弟さんだよと教えてくれた。時枝先生は確かにそういう大学教授的な風格を持った人だったが、本当のところ高校生には時枝文法などと言われても分かりはしなかったのだ。

 英語は最初に習った人がかなり変わった中国びいきの先生で、中国の軍隊が一番民主的ないい軍隊だなどと話すのが常だったが、駄洒落をサラっと言う人でもあって、occur,occupyと単語が並んでいると「おっかあのおきゅぱいだなんて言ってはいけないよ。」などとにこりともせずに言う。anniversaryは「兄バーサリー(バッサリ切るの意)」と言うのもよく覚えている。高木先生と言う人もいて何故か生徒にすっかりなめられていて、ある日など、先生休講にしましょうなどと言われて反対することができず、私は友達と下校してしまったのだが、ますも先生に見つかって、誰が休講なのかと聞くので高木先生だと言ったら、高木先生はいるぞ、と言われ、ごまかして帰ってしまったが、先生はひょっとして後で大変だったのではないかと想像され、冷や汗ものだった。その後で授業を受けた新任の先生は歓迎会の酒の席で高木先生に呼ばれ4の字固めをかけられて足が痛いと授業中に座り込んだことがある。高木先生は生徒に交じって1500メートルをかけたくらいだから体力には自信のある人だったのだろう。何故か気が弱かったのだ。

 音楽の田頭先生はまず自分の名前を種にして、この名前はなかなかきちんと読んでもらえなくてね、高校生の時国語の先生が「たがしら」と読み、訂正しても3度までそう呼ばれたので、国語の先生がこんな読み方をするとは、と嫌になってしまった、と話されていた。さすがに生徒たちの難しい名前も調べたのかきちんとお読みになっていた。(亡くなられたと聞いたけれど生出と書いておいずると読ませるピアノのうまい女の子がいた。この名前も問題なく読めたのだ。)指揮が専門だと言うだけあって指揮ぶりは堂に入っていた。

 このほかにも忘れている先生がいらっしゃるかもしれないが、それはおいおいまた話すとして、最後に姉の時からお世話になって印象深い先生の話をしておこう。島田慈周という英語の先生で当時すでに髪が極めて薄くなっていた。「僕がぐだぐだ言うよりパット分かる本があるんですよね。」と言いながら自習英文典と言う参考書を進めるので有名だった。この人も駄洒落をよく言う人で、多摩川の上を通ると汚水が汚くたまっているからたまリヴァーだ、などといいつつ、皆が窓から飛び出したくなるような駄洒落を言うんだと口癖にしていた。それである時クラスの何人かが示し合わせてhousesを訳する時いえいえつまりあのレナウンの宣伝(イェイェという言葉に乗る曲のコマーシャル)と言いかけたところで5,6人が一斉に飛び出してしまった。先生はさすがに驚きながらも笑顔で、「悪い奴ほど卒業後でも覚えているんですよね。」などと残りの生徒に語り、それからは「机の下に潜り込みたくなるようなしゃれ」にネタを変えられた。

 思い出は話せば話すほどまた芋づるのようにつながって出てくるものだ。あまり長くなるようなので、今日はここらでやめよう。

2017/12/7
記事作成者 高校23期 藤田 衆
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

<緑高の現在の様子>2【緑高生気質編

 高校23期の片倉です。2004年4月から定年を迎えた2013年3月まで緑高に勤務していました。もちろんヒラ教諭としてです。そのときの印象を元に、前回の予告通り、緑高生気質について書いてみたいと思います。

 まず気質とはちょっと違いますが、大きく変わったのは男女比です。我々の頃は大体男子6割、女子4割くらいだったと思いますが、今はその逆で女子6割、男子4割となっています。私が緑に着任した頃はまだ男子の方が少し多かったのですが、その後だんだん女子が増えてこうなったわけです。原因はある程度わかりますが、今回はふれません。

 あと我々世代と全く変わったのは、生徒が優しい、礼儀正しいということです。もっともこれは緑に限ったことではなく、どこの高校でもそうなってきているようです。我々の頃は、なかなか先生に対して手厳しい人が多かったですよね。また困るくらい従順です。草食系男子とかが話題になってますが、そんな世相になっているんでしょうね。

 これも我々の時代と大きく異なるのは、社会的関心が低いことです。まあこれも緑に限ったことでなく、現代の学生全般に言えることでしょう。逆に我々の頃が関心が高すぎたのかもしれません。図書室に「ゲバラ日記」が何冊も並んでましたが、そのくらい借りる生徒がいたからあんなに買ったのでしょうね。今あれを並べても誰も借りる生徒はいないでしょう。

 次にちょっと別の面から見てみたいと思います。現在、高校教員は同一高校への勤務は10年を限度とされています。また転勤は希望によります(特定校への希望はもちろんできません、地域の希望はできます)。すると学校によっては3〜5年くらいで転勤希望を出す人が多いところもあります(有名校にもあります)。そこへいくと緑の教員は長くいたがる傾向があります。要するに居心地がいいからです。その一つの例証をしましょう。

 私が緑に来てからですが、なんと「生徒による授業評価」というものが始まりました。各授業に対して、生徒たちがいくつかの項目に5段階評価を与えるものです。中身は全校共通ですが、そのやり方は各学校によって違います。まず無記名か記名か、記名なら誰か教員にわかってしまうのですから、あまりいい加減なこととかひどい批判とかは書けなくなるわけで、多くの学校は記名方式のようですが、緑はなんと無記名です。そして結果発表の形式も学校ごとに(というか校長ごとに)異なりますが、緑の場合は各教員が自分の授業で評価をとり、自分で集計して、それを各教科主任がとりまとめて教科の合計として発表します(今もそうかは確認してません)。よって各教員は教科ごとの結果を知ることができます。それを見ると評価結果はなかなかいいのです。生徒たち、優しいんですね。数学なんて嫌いな科目の最たるもののはずですが、私以外の先生方はとても優しい方が多く、数学科でさえなかなかいい結果なのです。この評価については、他校の教員とよく雑談で盛り上がるのですが、私が聞いた中で印象深い話を紹介しましょう。記名評価の学校での話、ふだんよく質問に来る真面目で熱心な生徒がいて、自分によくなついてくれている、さぞや自分の評価はよく書かれてあるだろうと思いきや、とんでもなくボロクソな評価が書かれていて、それを読んだときは「心が折れた」経験をしたと語ってくれた人がいます。そのショックは同業者としてとてもよくわかります。いわゆる進学実績の良い高校によくある話ですので、紹介しました。

 まあ緑は生徒たちも満足しているし、教員たちも満足して働いている、と言っていいでしょう。退職後も管弦楽部の定期演奏会に出演する関係で、まだコネクションを持っていますので、まあこう言ってよろしいかと思います。今後とも続いてほしいですね。

 そういう生徒たちの満足については、実はからくりがあります。そういう学校だと知って受験する生徒たちだからです。今はどの学校も中学生に対して「学校説明会」なるものを行って、自校の宣伝にあい努めてますが、たとえば生徒の話によると、某高校の説明会では「東大一橋東工大」を目指す人に来てほしい、と言っているそうです。これを聞いてそんなガリ勉の学校じゃいやだ、ということで緑にした、という「証言」を複数聞いています。そこへいくと、緑はのんびりやっていて自分に合ってそうだ、ということを事前に十分認識して受験するわけです。またインターネットの普及により、我々の頃にはなかった資料があります。「神奈川県高校口コミランキング」なるものがあるのをご存知の方が多いと思います。実は私はこういうことに疎く、ほんの数年前に知ったのですが、驚いたことに緑高が1位なのです。今回これを書くに当たって久しぶりに見てみましたが、やはり1位のままでした。ネット上の情報なので当てにならないのは当然ですが、ただ実際に詳しく読んでみると内部にいる者としてまあ実感できることが書いてあります。妥当なところだと思います。こういうのを見てそれで憧れて進学してきて、まさにその通りなのですから、そりゃ満足度も高いでしょう。一方、若干内部事情を知っている某他校の口コミを見ると、まさに聞いた内容のことが厳しく書かれてあります。従ってなかなか信頼性は高いのでは、と思える情報と言えるのではないか、と思えます。

 長くなりました。ここでは書けない面白いことが沢山あるのですが、次回はまた別の切り口から書こうと思っています。

2017/12/7
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

<緑高の現在の様子>1【校舎編】

 高校23期の片倉と申します。宮本君から牧陵会のHPの手伝いをするようになった、との連絡を受けてさっそく開いてみたところ、懐かしい名前が目に入り、私も投稿しようと思い立った次第です。

 私は大学卒業後、すぐ県立高校の数学の教員になりましたが、運良く定年前の9年間を緑高で過ごすことができました。4年前に退職して早大学院に非常勤講師として3年ほど勤めて、とても楽しくやっていたのですが、母の介護の関係でやめました。その母も今年5月に亡くなって、現在毎日が日曜日の生活をしております。

 同期で教員をやっている人も多いと思うのですが、緑高で教える機会を得た人が他におられないかもしれませんし、定年後も管弦楽部の諸君と一緒に練習する関係で年間数回緑高を訪れてますので、最新の情報をお伝えできるかと思い、何回かに分けて緑高の現在の様子について書いてみたいと思います。今回は校舎編です。

 我々が通学していた頃は職員室があった本館、主に教室があった北館、木造だった東館と建て替えられた西館があったと思います。東館はあのあとすぐ壊され、その後、体育館の建て替えや校舎の窓枠をアルミにするなどの工事があったようですが、基本的にはその校舎構成で40年以上過ぎたのです。その後、耐震調査などで建て替えを勧告され、それもだいぶ後回しにされて、4年ほど前にようやく完成しました。変わったのは以下の点です。

 ◎校舎とグランドの間にあった広い植え込みが、教室主体の南館として新築
 ◎本館と北館はこわす予算がないため、立ち入り禁止としてそのまま
 ◎西館は耐震補強をし、内部を大幅にリニューアルして事務室、校長室、職員室、保健室などを移転

 このように大幅に変わりました。あの植え込みは我々の頃はあそこで話をしたり、弁当食べたり、歌ったりしたものですが、その後ほとんど使われなくなり、私が緑に赴任した14年前は、誰も立ち入らない荒れた林になっていました。従ってそこに校舎を建てるのに、特に反対はなかったように思います。

 ここには21クラスすべての教室と理科教室、そして図書室が入っていますが、特筆すべきは、1階の図書室の右手前に牧陵会の部屋ができたことで、ここに行くと昔からの資料などが並べられてあり、誰でも自由に見ることができます。なお昔の図書室は今は音楽室になっています。

 周囲の環境ですが、かなり以前に米軍居留地が返還され、本牧地区はマンションに、間門地区は戸建てが立ち並んでいることはご存知かと思います。そして山頂部は本牧山頂公園として整備されました。それ以外はあまり大きな変化はないものの、やはりマンションがあちこちにできていて、ちょっと様変わりした部分もあります。

 県内あちこちの高校に勤務してきてつくづく思うのは、緑高の環境は素晴らしいということです。屋上に上がるとだいぶ綺麗になった港、高層ビルのあるみなとみらい方面、そして富士山が眺められます。周辺の落ち着いた環境は昔のまま、そして少し足を伸ばせば、横浜の歴史を感じさせるさまざまな建物や公園に行くことができる素敵な場所に建っているのです。皆さんも久しぶりに母校を訪れてついでに近辺を散策してください。

 今回はこのくらいで。次回は緑高生気質について書いてみたいと思ってます。

 高校15期に「✿(高23期)の「校舎編」記事を拝見して」が掲載されました2017/12/23

2017/12/6
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

牧稜会

 昭和46年卒業生の藤田です。今は名古屋の名城大学と言うところに勤めています。前に牧稜会に載せた記事に反応して田中幸二さんが便りをくれ、一度お会いしました。彼は今はヨーロッパなどと取引していて日本にいないことも多いようです。昨年(2016年)の夏に母校のホームカミングデーに初めて行ってみました。山手駅からの道のりも思っていたよりグネグネしていましたし、グラウンドがこんなに狭かったのかと少し驚かされました。他の部分にはあまり覚えがなかったのですが体育館講堂の、ステージが前面にある古ぼけたたたずまいは懐かしい前のままのものでした。確かそれももう改築されたようですが。
 そこでチアリーディング部の演技を見せてもらって、クラブ活動も変わったのだなと思いました。卒業して間もない人たちのオーケストラがカーペンターズメドレーを、古い人たちにはいいだろうと演奏してくれたのがよかったのですが、私にとってはそんなに昔ではないカーペンターズが懐メロ扱いされているのは少しショックでした。何周年かの記念号と言うのが図書館に並べてあったので、該当箇所を購入しました。緑高の歴史年表には数行だけ紛争当時のことが書かれていました。
 その後懇親会にも行ったのですが、同期生がだれもいないのは寂しい感じでこの様子を聞いた田中さんもそれなら行かないと言っていました。ただ、会長が自分が一年生の時の応援団長の向井さんだったのは面影も認められて懐かしい気はしました。会員のバンドによる余興があったのですがプロのような演奏で、リードヴォーカルの女性はアンジェラ・アキのヴォイストレーナーをやっているとのことでした。そういえば私たちの世代でも斎藤さんと言う人がいて、アイドル系の事務所で働いていたと覚えています。私や田中さんのように遠くに散らばっている人が多いのかもしれませんが、また集まれる機会があればいいとは思いました。

2017/12/5
記事作成者 高校23期 藤田 衆
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

12/2 HP講習会を受講し更新できるようになりました。

 こんにちは
 高校23期の宮本太郎と申します。

 12/2にHP講習会を受講して23期のページの更新ができるようになりました。
 ホームページ作成は初めてですので宜しくお願いします。

 23期は下記投稿しかありません。
 是非、皆様から最近の話題の投稿をお待ちしています。

 また、ホームページ更新をお手伝い可能な方、ご連絡いただけると助かります。

2017/12/4
掲載責任者 高校23期 宮本太郎
連絡先:tmiyamot22(アットマーク)gmail.com

2017.12(H29.12)以前のページ

名勝天龍峡を中心とした観光まちづくり

画像の説明
天龍峡

高校23期の半田和文と申します。
山下会長、橘川先輩はじめ、牧稜会諸先輩には大変お世話になりました。
私は、山陰・鳥取での観光協会の仕事を終え、この4月から長野県飯田市に入りました。
飯田市からお誘いを受け、飯田市の地域活性化、名勝天龍峡を中心とした観光まちづくりに関わっていくこととなりました。
横浜市同様、いち早く環境モデル都市の指定を受け、環境先進都市として街づくりを進めている南信州の小都市(人口約11万人)です。
現在、東日本大震災、原発事故によって被災された南相馬市の皆さんを受け入れ(約100名)、市職員、地域住民一体となって支援活動に当たっています。
観光地である名勝天龍峡地区においても、市民利用施設を開放、家族単位で個室を確保して40名弱の皆さんを受け入れています。食事の支度やお花畑の草取り作業など、南相馬市の皆さんと地区の皆さんが共同で取り組んでいます。ようやく開き始めた桜の下で交流会も行われ、手打ちそばや五平もち、ちらしずしなど、地区住民手作りの料理で、ほっとするひと時を過ぎしていただきました。
今後、こうした情報を始め、飯田市並びに南信州の観光情報地域のまちづくり情報などをお便りさせえ戴きたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

平成23年4月15日
記事作成者 高校23期 半田和文
(飯田市産業経済部調査役・天龍峡観光まちづくりコーディネーター)
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

藤田 衆

 昭和46年の卒業生で藤田衆と言います。
 これが何期かも実は良く知らないのですが、他の年代の方と比較すると、多分、高23期なのではないかと思います。
 ずっとごぶさたしていたのですが、そろそろ同期の人がどうなっているか知りたい気がして来ました。
 担任だった高津先生も加藤先生もお亡くなりになったと思いますし、自分も名古屋に住んで25年になり、同期の人とは全く連絡がなくなりました。誰かこれを見たら連絡してみて下さい。

メールsfujita(アットマーク)ccmfs.meijo-u.ac.jpまで。
記事作成者 高校23期 藤田 衆
掲載責任者 高校23期 宮本太郎