高校23期会

★牧陵会事務局からのお願い

 住所が判明している方には、「牧陵新聞」等の牧陵会活動報告や、同期の幹事の方から同期会開催等のご案内状をお送りします。

 牧陵会では、牧陵会活動への温かいご理解と、活動への積極的な参加をいただくため、宛先不明となっている会員の方々の現住所を確認する作業を進めております。
 このリストをご覧になられたご本人から、あるいは、同期生の現住所をご存知の方は、移転先住所等の下記変更事項を牧陵会事務局までご連絡いただければ幸いです。

《ご連絡いただきたい事項》
 【卒業期】・【氏名(旧姓も)】・【住所】・【電話番号】・【メールアドレス】等
 ※ 卒業期は、「緑高同期会」のページの早見表をご参照ください。

 個人情報を一般に公開することはありませんが、同期会開催のために要請があれば、同期会幹事に提供する場合があります。
 同窓会名簿は、インターネット回線に接続していないパソコンで厳重に管理しており、冊子としての名簿は、平成10(1998)年版以降、発行しておりません。

 宛先不明会員の一覧表は、個人情報保護のため、お名前はカッコ内に1字のみ表記させていただきました。

 牧陵会事務局
  〒231-0027 横浜市中区扇町3-8-6
  ℡045-664-9020
  e-mail  bokuryoukai@gmail.com

宛先不明会員リストを見る

【学園紛争の時代10(最終)】

本牧ベイサイド・ハイスクール

 今回がこのテーマの最後となりますが、新たに手に入った2つの資料の紹介をしたいと思います。

 まず1つめ。「学園紛争の時代2」の末尾で、羽仁五郎講演会のあと、週刊新潮に「革命扇動家羽仁五郎一家の貴族的生活」という記事が載ったと紹介しましたが、以前緑ケ丘で同僚だった川手先生が、わざわざ東京の大宅壮一文庫まで足を運ばれ、この週刊新潮の記事をコピーしてきてくださいました。

 冒頭に羽仁五郎・説子夫妻と息子の羽仁進・左幸子夫妻の写真、さらに次ページに湘南海岸にある白亜の羽仁御殿の写真が載っています。そして細川隆元氏が、緑高の親から送られた講演記録を読んだ上でのテレビでの発言を紹介しています。昭和44年3月8日号からの引用です。
「神奈川県の父兄が送ってきたものだが、県立緑ケ丘高校ね。“自分はそこに子供を入れています。見るに見かねてます”というのだ。昨年11月21日に羽仁五郎君がこの学校で講演をした。その全記録なんだ。

 高校生といえばまだ頭は白紙だね。そしてセンシブルな、感じやすい子供だね。そんなところで講演させる。する人は頼まれるからやりますよ。極端に色合いの強い人を呼んできて、校長の頭を疑うというんだ。非常に憤慨しておられる。

 ちょっと読んでみてもひどいことをいっているね。(註:以下羽仁氏の講演からの話)学生運動は世界的なものだ。アメリカのコロンビア大学でも有名なのがあった。コロンビア大では原因調査を第三者に依頼しようということになり、ハーバード大学のコックスという先生が委員長になった。元連邦政府の検事総長だ。だいたい検事総長というのは、ろくでもない人物で、いわくつきの反動だ。ところがそれが、調べた結果はどうだろうか。この学生運動は、最も理想主義的、最も社会的に鋭敏な、そして最も精錬(原文のママ)された戦術をもっている。しかもこれはぼくがいうんじゃないよ。こんな年寄りの言うことは信用せんでよろしい。しかし、コックスが書いているのだから、間違いないじゃないか。これをわが国の学生運動にあてはめると、わが国がはじめて持った最も知的な、最も理想的な、そして最も鋭敏な運動といえる(以上)。

 まあこんな具合なんですよね。実に巧みに言うんだね。これはなかなか巧みな話し方ですよ。オレはどうせ棺桶に足を突っ込んだ老人だから、オレの言うことは信用せんでいいよ。ところがキミたち、コックスというのが言っているんだよ、すばらしいことじゃないか、といって若い人たちを引き入れるんですよ」

 このあと金子校長の話が入りますが、それは校史にある通りの話です。またテレビでは「こんな学校はつぶしてしまえ」と言ったようですが、その部分は載っていません。まあ当時の雰囲気がよくわかる記事でした。

 次に2つめ。23期生の菊地亮二君が書いた「本牧ベイサイドハイスクール」(以下本牧)という本を紹介します。この題名からなんとなく緑ケ丘高校のことだとわかりますね。本当は立野の方がよりベイサイドではありますが。

 彼とは1年のとき同じクラスでした。薄ボンヤリ系の私とは違って、政治意識も高く、大変優秀な生徒でした。その彼が定年近くになって当時のことを回想したもので、生徒や教員は仮名で登場しますが、誰だかは何となくわかるようになっています。23期の皆さんは菊地君のことはよくご存知だと思いますが、小野君と並んでCCUの中心だった人です。

 副題に「1970年、僕らはゲバ棒を持たなかった」とあります。これは校史に職員室の逆封鎖があったときに先頭にたって生徒と対峙した桜井教諭の話として

「私は生来血の気が多く、しかも当時は三十代の後半という、教師としては最も脂の乗り切っている時代であった。“オレに続け”とばかり先生方の先頭をきってドアを開けた。しかし、そこに待っていたのは、CCUの振りかざす椅子とゲバ棒の雨・・・」(校史p452)

という記述があったのに驚き、実際はゲバ棒など持っていなかったことを訴えたいために副題としたようです。ついでにいうと椅子を振りかざしたということはなく、実際はたまたまそばにあったロッカーで封鎖したようです。まああのような異常な事態のときのことなので、記憶が曖昧になり、時がたつにつれて、違うイメージになって固定化するというのもよくあることで、「本牧」の中でもそのように理解している生徒の話も載っていますが、一度活字に、そしてこういう公的な本に載ってしまうと読んだ人は当然そのようなことがあった、と思うでしょうから、このことに対して、副題で抗議したわけでしょうね。(本牧p34〜35)

 以下、同書から校史にない話と校史と異なる部分をいくつかあげたいと思います。仮名の部分はそのままにしてあります。

(本牧p43より引用)最近になって、春日井教諭と同僚が二十数年を経て当時の落第処分を語っている対談記録を手に入れた。それによれば、真相は数学担当教諭の気まぐれだった。及第点であることは教師全員が知っており、担当教師に翻意を促したが同意しなかったとのこと。その担当への憤り、生徒に対する謝罪の念、制度への怒りや疑問、自らの役割に対する省察、そのどれのかけらも対談の中にはない。

(本牧p89)ここに羽仁五郎氏の講演記録はある生徒が速記でとっており、その生徒の家が印刷屋のため、すぐ印刷されて50円で売られたことが書いてあります。なるほど!

(本牧p91)なんとこの講演記録を生徒の家を回って回収した教員がいたらしいとあります。私の家には来なかったようですが。

(本牧p101)「学園紛争の時代4」で紹介した映画「三里塚の夏」ですが、これを事前に3人の教員がいわば検閲をした上で上映を認めたことが書いてあります。宿直室でのことでした。校史に文化祭でこれが宿直室で上映されたとありますが、これはこの検閲の場所を文化祭の当日の上映場所と勘違いしたわけですね。

(本牧p131〜134)ここに当時の生徒たちが教員に発した質問が書かれています。
たとえば倫理社会の先生に対して『武市先生、教育の本質はなんだとお思いですか』
日本史の先生に対して『先生がここで日本史を教え、自分たちがここで日本史を学ぶということは世の中においてどういう意味をもっていると考えますか』
数学の先生に対して『先生はこの学校で数学を教えていますが、そのことの社会的意味はどういうことだとお考えですか』

そしてこの質問に対して『社会?社会など関係ない。社会がどうあろうと数学は数学だ。私の授業が嫌なのか?私の授業が気に入らない奴は教室から出ていってもいいぞ!』
と答えてしまうのです。このとき、CCUでないある女子生徒が教員に軽蔑の一瞥を投げて教室から出ていってしまうのです(この生徒は後に数学で赤点とされ、留年となってしまうことでいわば復讐されてしまいます)。

(本牧p144より引用)昼頃、職員室近くで数人の父兄の姿を見た。学校側がメンバーの親を学校に呼びつけたのだと知った。父も来たようだった。家に帰るのが憂鬱だったが、そのことには誰も一言も触れない奇妙な夕食となった。父はどことなく晴れがましい表情をしていた。

(本牧p188)ここに、職員室への逆封鎖のときに、最初は鉄パイプをもっていこうとしたところ、ある仲間から、『お前ら鉄パイプは持つな!』と言われたことが書いてあります。理由は『鉄パイプを持ったら先公を怪我させる。俺は落第だから一年余分にやればいいが、先公を怪我させたらお前ら退学だぞ』、こんなことがあったため、鉄パイプは持たずに職員室に行ったわけですね。

(本牧p200)この処分をめぐる職員会議で中津先生は『普段の年とは状況が違うのだから進級させてやればいいではないか』と主張したそうです。それに対して『普段とは状況が違うからこそ落第が相応しい』と言い返されたとあります。それに続く職員会議を中津先生は欠席されたそうです。

 なおこの本は、横浜市立中央図書館および中図書館、国立国会図書館、そして緑ケ丘高校南館1階の牧陵会校史資料室に置いてあります。

 まあ歴史的事実はみなそうでしょうが、関わった双方の主張に目を通さないと正しく理解できないのでしょうね。やはり校史はこういった生徒側の見方についてはごく一部しか紹介されてないわけで、まあ仕方ないこととはいえ、それを承知で読んでいかなくてはいけないのでしょう。

 一方、「希望ヶ丘高校百年史」では事情が異なるのです。ここで学園改革の章を書いた方は﨤町先生といい、彼が希望ヶ丘の在学中にまさに紛争に遭遇し、(おそらく活発に)活動した人として知られていますが、このように生徒側にいた人がこの章を担当しているわけです。ですから、生徒側からの見え方(というか活動した側)と教員側からの資料を両方押さえた上で書かれてますので、より真実に近い記事になっているのでは、と思われます。

 またここに私にとって大変興味深い事実が書かれてありましたのでご紹介したいと思います。この﨤町先生は希望ヶ丘高校の22期(緑と期が一致します)にあたりますが、この期に限って大学卒業後、教職等教育関係の仕事について人が異常に多いということを記しています。40名以上いるそうです。その前後に比べて突出しているんだそうです。実は昔、私は希望ヶ丘に勤めていたときにこのことを聞いたことがあり、少し気になっていました。それから20年以上もたってからですが、緑に転勤して、時間割編成の作業をしていた部屋の棚になぜか希望ヶ丘高校の同窓会誌があり(不思議!)、思い出して調べたことがあります。その結果、この22期に限り、20数名の方が高校教員になっている事を確認できました。小中学校についてはカウントしませんでしたし、勤務先が記載されてない人も多いので、それらを入れると確かに40名以上ということは十分うなづけます。その他の期を見ても大体毎年せいぜい一桁の数字です。それで気になって今度は牧陵会名簿を見て確認したのですが、高校教員になっているのは大体毎年数人だけです。21から23期あたりでもほんの数人です。この大きな違いが何によるものかはもちろんわかりませんが、気になる事実なので紹介させていただきました。

 さて長々と続けてきましたが、『学園紛争の時代』の連載をこれで終わりにさせていただきます。まあこういう経験を高校時代にしたので、私自身が高校教員になった頃に、もし生徒から『先生、どうしてぼくらは数学を勉強しなくてはいけないのですか?』とか『数学を学ぶ社会的意味は何なんですか?』と聞かれたら、こう答えようという案をしっかりもって教員になりました。何しろ皆が嫌う数学ですからね。ところがなんとそう質問されたことは現役38年+講師3年の間、公的には一度もありませんでした(私的にぼやかれたことはありますが)。ちょっとがっかりでした。時代は変わったんですね。

2018/4/26
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本 太郎

【学園紛争の時代9(昭和45年4月)】

成績

 前回長々とお話した留年措置決定のポイントをあげておきます。

◎成績不良による赤点
  個別試験の場合:各教員の裁量に任されます
  統一試験の場合:統一基準はありますが、最後は各教員の裁量に任されます
◎欠席時数オーバーによる赤点
  少しのオーバーなら、学年提案が可決されることにより、該当教科が手当して進級させることが可能です
◎いずれにせよ最後は校長の決裁によります

 ということがおわかりいただけたと思います。これを元にこのときの成績処理の様子を問題となったAさんの場合について確認してみたいと思います。前回の該当部分を再び引用します。
「AさんとAさんの父兄と我々が数学科の教師と話し合ったところ、次のように説明した。

 1 3学期の欠席日数は3分の1以上であった(学年を通してではない)
 2 2学期末ボイコット、3学期1回目欠席、2回目白紙

よってAさんの3学期の成績は出ない(成績は6−3−0)。だから不認定である」
(なお0というのは評価資料がないときに仮につけるものです)

 まず1ですが、「3学期48時間中17時間欠席」ということですから、1時間のオーバーです。ですから学年が教科に依頼して3時間分の補習授業をしてもらうと「51時間中17時間欠席」でクリアとなり、成績を1にして、6−3−1、これの平均をとると3.3、赤点は(10段階なので)2か1ですから、これなら及第です。なぜこうしなかったか? 学年会議でどういう議論があったのか校史からはわかりませんが、数学科に手当を打診しても断られたということでしょうか。何だか「進級させるつもりがない」という決断だったとしか思えません。そもそも学年ではクリアしているのです(あとで出てくる教頭の説明に「年間で3分の1以上」とあります、3学期だけの計算ではないのです)。

 次に2の理由ですが、欠席時数という客観的事実と違い、これこそ各教員の裁量ですから、追試なり課題なりを与えて赤点を回避できます。これも「進級させるつもりがない」という決断だったとしか思えません。あるいはボイコットしたんだから、留年するのも覚悟の上だったのだろうとでもいうのでしょうか。

 そして何よりも問題なのは、平時ならともかく、紛争という異常な事態の中で起こったわけですから、成績処理も本来の基準によらず柔軟にできたはずです。ともかくこの措置は大いに疑問です。

 なお担当の村井教諭は肝臓ガンで4月初めに入院してしまいます(その後亡くなったということです)。そういう体調が悪い中で、生徒への手当をする余裕がなかったという事情も考えられますが、その場合は同じ学年担当の他の教員が担当します。それはできなかったのでしょうか。

 また他に欠席が3分の1を越える生徒がいたのに進級できていた理由は示されていません。かなり不公平な扱いだったと思えます。

 また校長決裁によって進級、という超法規的措置も可能ですが、赴任したばかりでそういう強引なことはやりたくなかったのでしょうか。緑ヶ丘の伝統では職員会議が最終の決定機関でしたから。ちなみに今の県立高校は様変わりしていまして、職員会議は議決権がなく「決定」はしません、その「議論」を参考にして校長がすべて決裁するというシステムです。じゃあ職員会議なんてなくても同じじゃないか、と思いますが。

 さて校史からの引用に戻りましょう。前回はCCUが留年処分に強い反発をして4月7日に公開質問状を出したことまで書きました。その後の動きの話に進みます。事態は職員室の逆封鎖という重大局面を迎えるのです。学校が県教委に対して、生徒の(学年ごとの)在籍数を出す〆切が10日なので、留年の撤回はその前でなければならないということから、この10日がタイムリミットとなります。その質問状に対する回答について、中村校長は職員会議の審議の上で決定されるべきで、校長の一存では決められないとしていました。ところがその職員会議は開かれないまま、8日は離着任式、そして9日朝のホームルームで放送による評価の仕方の一般論と二期制についての話があったようです。そのため、留年処置について何ら検討がされてないことを不満として、1校時終了後にCCUを中心とした20名ほどの生徒が校長室に入り、抗議をした、と校史にあります。この問答はなんと延々8時間30分にわたり、午後6時半頃まで続いたということです。そして翌10日の朝に我々もよく覚えているあの職員室の逆封鎖が行われます。校史から引用します。

「翌10日朝、CCUは『職員室に突入せよ! 本日大衆団交を勝ち取れ!』とのビラを配った。『中庭集合8時30分』と呼びかけている時、朝の打合せ中の教師たちは、それを知らなかった。しかし、前夜情報を入手していた教師がいた。その教師が『この打合せの最中にも突入があり得る』と全教員に警告を発しているその瞬間、職員室の二つの入口に机・椅子が積み上げられていた。逆封鎖だった。全教員を職員室内に封じ込めようとする暴挙であった。職員室はほんの短い時間、呆然とした空気に包まれた。『校長、直ちに撤去しましょう』と一教諭が校長に進言した。『直ちに撤去してください』と校長が指示した。一斉に教員が二つの入口に殺到し、バリケードを崩し、廊下に飛び出した。

(このあと、ここでのもみ合いで桜井先生と加藤先生が怪我された話が入る)
職員室のバリケードを崩し、廊下に飛び出した教員たちは、封鎖を企てた約10名の生徒たちを職員室に連れて入った。生徒たちはなおも興奮がさめやらず、『我々の要求する総会を認めてくれないし、タイムリミットが今日であるとすれば、こうするより他に方法がなかったのだ』と主張し、約1時間にわたって激しい議論が交わされ、さながら団体交渉の場の如き景観を呈した。結局、CCUの要求する公開説明会を認めるか否かを審議する職員会議を午前9時50分から開くこととして、生徒たちは一旦職員室から出ていった」

 この職員会議は延々夜の9時45分まで及んだとありますが、結論は
◎CCUの要求する公開説明会は認められない
◎ その代わりに翌11日の1校時をロングホームとし、教頭が放送で評価について具体的に説明し、疑問があれば担任が答える
ということに決まったとあります。その放送の骨子は次の3つと確認されます。またタイムリミットは校長の判断で明日10時に延期となったようです。

1 教科によって単位認定の基準は変わらない
2 学年末成績は通例1〜3学期の評価の合計を3で割って出してある
3 単位認定は年間を通して欠席が3分の1以上でない場合としている

 そして11日土曜の朝、清田教頭の放送が各クラスに流れます。再検討した結果、この処置が誤りないことを全職員一致して確認した、とあり、公開質問状で例示された(Aさんを含む)3人の具体的な事例にふれたあと、これをふまえて各ホームルームで話し合いをしてください、と結びました。

 このとき、3年のあるクラスで、担任が今日の10時に在籍生徒数を県に報告する(1日遅れですね)と発言したため、これは騙し討ちだとCCUの生徒がいきりたって校長室に押しかけ詰め寄ります。この後会議室に移り、大衆団交の形になります。ここでCCUは、留年問題を議事とする全校集会開催を要求、その可否を議論する職員会議を生徒に公開するよう求めます。このあとの職員会議で全校集会は認めるが、職員会議の公開は否と決定されます。この回答にCCUは満足せず、再び大衆団交となり、午後4時まで続いたとのことです。この時点で生徒会会長が生徒総会の開催を要請、教員側は受け入れます。そして13日月曜9時から生徒総会がもたれ、留年問題で教員側が生徒の質問に答える形で行われます。午後にまで及び、最後は挙手で留年措置を認めるか採決され、認められないとの結論になりました。

 ここで生徒会は交渉のために交渉団15名を選出し、引き続き交渉を継続します。この日の夜、職員会議は夜遅くまで続き、深夜11時過ぎに留年措置撤回を拒否することを改めて決定、これに納得しない交渉団と徹夜の交渉に入ります。しかし平行線のままでした。このとき交渉団に加わっていたある生徒の感想が校史にありますので引用します。

「留年、非常に大きい問題だ。そして一度でも留年を撤回せよと決議したことは、生徒の中にも先生不信の者がいるということを示している。(原資料中略)留年したCは2学期から3学期にかけての紛争で、授業改革をするとき、先生と意見をやりあって、先生に質問してそれがあまりに多いものだから、先生は『おれの授業がいやなら出ていけ』といったそうだ。その生徒はそれきりその先生の授業は出ていないで、留年という話もきました。これらのことを考え合わせると、先生不信が少なからず出てくる。この紛争は、そして13日夜の話し合いは、ぼくには一生に二度とないような勉強になりました。将来、この経験をむだにしないようにしたい」
(高津教諭編『余震 震源地2G』より)

 結局14日火曜朝8時30分、校長は県に留年を含んだ形の在籍生徒数を報告します。そして生徒側の要請通りに生徒総会が9時30分より開催されますが、教員側は留年措置については方針変更はあり得ないという結論で結束していたため、平行線のまま、午後に続きます。校史によるとこのとき、数学科主任の代理で答弁に立った宮鍋先生がなぜ赤点になったかを数学科の立場から丁寧に説明し、それに対して生徒から拍手も起こったとあります。私は全く記憶にないのですが、そのあともいろいろな教師から説明があり、なんと3時10分の時点で、留年の説明に納得するかの採決が行われ、賛成多数で納得する、となったとあります。学年別のデータはありませんが、1年と2年はこの問題に関して全くの部外者だったわけで、こうなるのも当然だったかもしれません。
 翌15日から平常授業となり、紛争は「終焉」したとされます。

 他校の留年について校史はふれていませんが、どうやら他校では留年処分はなかったようです。ただいろいろな条件が異なるので、単純に緑ヶ丘の措置がどうこうとは言えませんが。
 さて、次回は新しく手に入ったいくつかの資料をもとに、この長々と続いた学園紛争最後の回としたいと思います。週刊誌の記事と、当時生徒だった方が最近出版した回想録です。今までは校史をもとに書いてきましたが、これだとあくまで学校サイドから見たものなので、生徒側から見た当時の動きがよくわかる貴重な資料となります。

2018/4/9
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本 太郎

【学園紛争の時代8(昭和45年4月)】

留年

 さあいよいよ私がこの記録を書きたいと思った本当の目的にたどり着きました。紛争の結果、緑高は大量の留年者を出すことになりました。その経緯です。我々23期生が高校に対してどうしてもわだかまりを感じてしまうその原因となった留年について。自分が教員になっていろいろ知ることができた評価、そして留年措置というものがどういう議論のもとに決定されるかを後半に書きたいと思います。まずは新学期に入ってからの様子を校史から紹介しましょう。

 そして春休みに入り、4月に入ってこの留年措置の件が3日の毎日新聞と読売新聞で報道されるのです。校史では毎日新聞の記事が抜粋で紹介されています。

「生徒側の話によると、学校が示した留年の理由は、単位不足と出席日数不足が主なもの。しかし生徒たちは、①出席日数については、留年した生徒より出席日数の少ない活動参加の生徒が進級している、②2学期までは単位認定に必要な成績が2以下になるような生徒が進級している、などの疑問があり、納得できる説明がないと主張している。数学では1学期6、2学期3、3学期0の生徒が留年、3−2−0、4−2−0で1年間の平均が2以下になる生徒が進級しているといい、古典の場合は不認定の生徒がレポートの追加提出で進級できたケースがあるという。また父兄に対して、『他校に転校するなら成績を書き直す』と言ったといわれ、すでに2人の生徒が転校の手続きをしている」

 このように新聞記事にしてはかなり具体的に成績が紹介され、ちょっとびっくりするのですが、この記事が出たきっかけとして、一教諭はCCUのリーダー格の生徒が知人の読売新聞の記者に通報したことが発端であるという、と校史には書かれています。

 こんな状況の中ですから、新年度の入学式は荒れることになりました。式は6日に行われましたが、10時の開式の前、9時半ころから13名ほどの生徒がグランドの校旗掲揚台付近で「入学式粉砕」のアジ演説とシュプレヒコールを繰り返したそうです。そのうちに前列は棍棒を横にして、あとの列はスクラムを組んで隊形を作り、CCUの赤旗を先頭に駆け足デモを始め、この直後デモ隊が入学式突入の挙に出る、とあります。このときの状況をそのとき式場付近で警備に当たっていた五島正樹教諭が次のように証言しています。

「少人数のデモ隊であったので、この分だと式場突入はありえないな、と3人いた体育館側の警備も2人減り、私1人になった。大体トラックを三周した頃、デモ隊は体育館の北側入口をめがけて突入してきた。さながらラグビーのフォワードが攻め込んできた感じであった。この塊は相当手強い相手だったが、こちらも満身の力で彼らを押し返した。もんどり打って倒れていったのを覚えている。彼らはすぐさまスクラムを組み直し、二度目の挑戦をしてきた。その時も入口の扉まで押されたが、なんとか押し返した。私の体力も限界だった。喉がからからに乾いて心臓がドキドキするので、近くの手洗い場で口を蛇口にくっつけて水をガブ飲みしているすきに、とうとうデモ隊の一部が式場へ突入した(寄稿)」

このあとのことですが、式場にいた多数の教職員は、乱入してきた生徒たちを、列席していた父兄の一部と力を合わせて押し返したとあります。こんな混乱があったため、予定を変更して、入学式は短縮され、終了したそうです。ただこのときに数人の教員が怪我をします。

 翌日始業式が校内放送で実施されます。このあとの職員会議で中村校長から、一部生徒から「公開質問状」を受け取ったと発表します。重要な内容を含むので全文引用します。
「(公開質問状に対しては、9日までに責任ある回答を行え)

 昨年10月以来斗われてきた評価・テストの問題は、何ら改革すらも行われぬまま収束していった。その中でCCUを中心としたところのテストボイコット者に対して、学校当局は全校集会の場において処分しないと確約したにもかかわらず、処分としての留年が出た事を、この場において全ての生徒、職員に訴える。その一つの例としてAさんの場合を訴えたい。

 Aさんは数学の単位を認定できないという2年担当数学科(下村・国領・村井)の決定によって留年させられた。しかしAさんの1学期の成績は6、2学期3、そして3学期2回あったテストに1回目は欠席、2回目は0点(ウラに計算はしてあったが、表は白紙)であった。また、単位を認定されたB君の数学の成績は、1学期3、2学期2、そして3学期の2回のテストに0点を取っている。同様に単位を認められたC君も、1学期4、2学期2、3学期2回0点であった。しかも3人とも同じ村井先生の授業を受けていたのである。このような全く不可解な状況の中で、AさんとAさんの父兄と我々が数学科の教師と話し合ったところ、次のように説明した。

 1 3学期の欠席日数は3分の1以上であった(学年を通してではない)
 2 2学期末ボイコット、3学期1回目欠席、2回目白紙

 よってAさんの3学期の成績は出ない。だから不認定である。

 しかしながら、Aさんは3学期48時間中17時間欠席したため、3分の1に1時間足りなかっただけであり、他にも3分の1以上の欠席者がいたにもかかわらず、Aさんだけが不認定である。又、学期間だけを問題にして、3分の1以上の欠席不認定としているのは数学科だけである。このように全く不当な理由で出された留年に対して、進級会議を構成している全職員、校長に対し、次の質問に全校生徒の前で答え、公開説明会を開くことを要求する。

 ①全員の留年理由を説明せよ。
 ②教育における留年の意味を説明せよ。
 ③単位不認定の基準を発表せよ。
 ④他校に転校する場合のみ成績を書き換えて、3年生として認めるということは一体どういうことか。

 以上について答えない場合は、留年処分に対し何らの根拠のないものとする」
 なおこれと同じビラが我々にも校門付近で配布されており、我々一般の者はこれで初めて事態を承知することになります。

 さあ後半です。自分が教員になって、成績処理の実際を知るようになってみて、このときの留年措置について強く思うことがあるので、書いてみましょう。なお以下の話は私が経験した神奈川県立の高校に限ったことだということをお断りしておきます。私は全部で6校経験していますが、学校によって微妙に異なった状況でした。また詳しく書くときりがないので、ざっくりと書いていきますが、それでもだいぶ長くなります。

<どうなると「留年」か>
 まず赤点とは(以下5段階として説明)評定が1のことです。これが1つでもつくと原則「留年」となりますが、評定平均といって全教科の成績の相加平均がその学校が決めている一定値以下だと「留年」ということもあります。
 そして1がつくのは主に2つのケースがあります。

①成績不良による場合
②出席日数不足による場合

 では①からいきましょう。テストでどのくらいの点をとれば1がつくか、これも2つのケースに分けて説明します。

Ⅰ 各教員が自前の試験を作っている場合(昔は多かったですね)
 これは各教員が自分の基準でつけます。たとえば100点満点で平均が60点だとして20点くらいだとまあやばいでしょうけど、でも20点で1をつける教員もいるし、2とする教員もいます。まさに「評価権」ですね。

Ⅱ その学年の教科を受け持つ教員たちで共通の試験を作成する場合
 当然統一した基準で成績をつけます。中間期末の単純合計をもとに学年を通して5段階評価をしますが、ただこれを自動的に評定とするかというとちょっと違います。なぜかと言いますと、定期テスト以外に各教員が行っている小テストや課題の提出状況があり、それを「加味」して各教員が最終的に評定をつけるわけです。ですから同じ定期テストの合計点でも評定が異なることが十分ありえます。

 次に②です。これは学校によって基準が「内規」という形で統一したものが決まっています。たとえば授業時数の3分の1をオーバーしたら赤点、というように。そしてこの場合も次の2つに分かれます。

ⅰ)入院等で登校すること自体が無理で基準オーバーした場合
ⅱ)そのような事情がなく、本人の怠けで欠席してオーバーした場合

当然 ⅰ)については同情に値するわけで、何らかの追指導を考えます。すでに退院していれば、オーバー分の指導をしますし、まだ入院しているなら、仮に進級を認めたとして、その次の学年でどのくらい出席してきちんと成績をとれるかを判断しながら、進級を認めることがあります。ただ半分以上の欠席だときついかもしれませんね。まあケースバイケースですね。一方 ⅱ)については本人の責任ですから、手を差し伸べることはないでしょう。ただどちらのケースでもない「ひきこもり」による欠席オーバーというのが悩ましいのです。入院なら確実に治るとみていいのですが、このケースは微妙です。担任の熱意に左右されるケースですね。

 ただ一教科のみの赤点で留年というのは、たとえば他の教科が素晴らしい成績でも留年となり、もう一度元の学年に戻ってすべての教科を再履修するわけで、これは理不尽なシステムだと言われても仕方ありません(これが「学年制」の欠点です。大学のような「単位制」ならそこをクリアできます)。そこで可能な限り、それを避ける処置を我々はするわけです。
 各教員が赤点をつけた後の流れですが、次のように段階を踏んでいきます。

①各教員が評定をつけたあと、担任に報告する前に「教科会議」を開いて、各自の担当クラスの平均点と赤点をつけた生徒の状況を説明して、教科の承認を得る(ただこの段階で赤点が覆されるということは通常ないです)。そしてその結果を担任に「成績個票」という形で指定期日までに報告します。

②担任は全教科の成績個票が揃ったら成績一覧表を作り、自分のクラスの赤点生徒を学年教務担当に通知します。そうして「成績不良者一覧」が作成されます。そして担任と副担任で構成する「学年会議」を開いて、担任の意向(留年致し方なしか、できれば進級させたいか、という意向)を参考に学年として審議し、学年として留年仕方なしとするか、進級に向けて教科に追指導をお願いするかを決めます。なお学年主任はその結果を校長にすぐ報告します。

③全教員による成績会議が開かれ、成績不良者について学年の意向が発表されます。ここでたとえば学年から該当生徒について是非追指導をお願いするという要請があれば、そこで審議し賛成を得れば、当該教科は指定期日までに本人を指導して、その結果を職員会議で報告し、単位を認定するか否かを報告するわけです。しかし留年の最終判定は校長にあるので、以上の教員による審議の如何に関わらず、ここで「総合的判断」(あるいは「超法規的処置」と言ったりもする)によって結果が覆る場合もあります。これは成績会議の前に校長判断ということで出ることもありえます(まあ稀ですが)。

 さてこれをもとに今回の緑高のケースをみていきたいと思いますが、長くなりましたので、以下は次回。

2018/3/30
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本 太郎

【学園紛争の時代7(昭和45年2月〜3月)】

卒業式

 卒業式については、前年の経緯があり、教員側と生徒側双方が改革に向けての組織を作り、結果的に次のようになりました。

 ◎前年、批判の的となった「君が代」はなし
 ◎唱歌「仰げば尊し」は教員側が遠慮するということでこれもなし
 ◎壇上の「日の丸」は掲揚しない

 余計な話ですが、ちなみにその後時代は大きく変わり、文部大臣が強制しないと言っていた「日の丸&君が代」は今、すべての県立高校で実施されています。当時、一部の学校では、教員側が強く反発して大もめしたところもあります。しかも各教員が実際に「君が代」を歌っているかを確認するよう県は各校に指示しており、私は経験ないですが、一部の教頭は実際に式場で教員の口を見てそれを確認していたとかいないとか・・・。

 もっともこの改革された卒業式も批判の的になります。2月21日のようですが、3年CCUの名でビラが出されます。次のようなものでした。長いですが引用します。

「三年前、君はこの緑高を志願した。そこに待ち受けている巨大な知識の山=大学受験=社会的隷属の存在を知りつつも・・・。問題はそこまでさかのぼらねばならない。苦痛を知りつつも志願する、いや志願せねばならないという状況、辛い単純労働と知りつつも食う為には働かなければならないという状況、大して学問したいとも思わないのに大学へ行かねばならないという状況——この矛盾!

 我々三年CCUは、この矛盾に関して若干の分析を試みた。すなわち、この社会的隷属の根源、矛盾の根源としての資本、あらゆる人間性をハク奪し、学園を労働力商品の生産・再生産過程に再編する目的をもつ集団としてのブルジョアジーというものの存在を見た。そして彼らは君に、失われた三年間の代償として一枚の紙切れを与え、あるいは『厳しゅく』な『式』を対置する事によって、君の怒りをごまかさんとしている。(中略)労働力商品の出荷としての卒業式を画策している」

 まあこれでは卒業式そのものを粉砕しようということなので、改革案など意味ない、ということですね。こういう流れは他の高校でも似た状況にあるようで、県も危惧していたようです。

 学校側がどう対応しようとしたか、校史から引用します。

「CCUが実力行使で式を阻止しようと企てているとの情報はかなり早くから入っていたため、教員側は家庭訪問をも含めて、思いとどまるよう説得に努める一方、前年度同様、校内警備係5名を選んで混乱に備えた。校内に監視の教員が立ち、関係者以外立入り禁止の看板を出して外人部隊(注:緑高生徒以外の者による集団)の応援を警戒した。また急遽、式次第の中の『在校生のことば』を取りやめ、前日に予定していた式の予行も中止した」

 そんな中、3月1日、卒業式は挙行されます。その様子が毎日新聞横浜版で報道されましたので、その記事を引用します。

「昨年『国歌斉唱反対』などで“造反騒ぎ”のあった県立緑ヶ丘高校では343人の卒業生を迎えて午前10時から式が始まった。例年、県教委、PTAの代表や県議などが列席していたが、今年は父兄以外の来賓は1人もいなかった。校歌を合唱し、卒業証書授与のあと、校長の“祝いの言葉”と“卒業生の言葉”だけという簡素なもの。

 卒業証書授与のとき、名前を呼び上げられて起立をしなかった卒業生が数人おり、司会者から『知事、県会議長、県教委から祝辞や祝電が来ています』と簡単な紹介があったときも『ナーンセンス』とヤジが飛んだ。校門付近ではヘルメット姿の生徒約20人が『卒業式をボイコットして集会を開こう』とビラやスピーカーで呼びかけていたが、大部分の卒業生たちは無関心の様子だった。式は約40分で終わった」

 ここにある「集会」は実施され、集まった者たちが式場への突入を試みたようですが、教員たちに阻止されたとのことです。ちなみに翠嵐高校と希望ヶ丘高校は卒業式を中止しています。

 さて残った1、2年生ですが、3月12日から3学期末テストが実施されます。これは全員受験しました。そして23日の成績判定会議で大量の原級留置、俗にいう留年ですね、が決定されます。重要な部分なので引用します。

「1年生2名、2年生9名が進級基準を満たしていないことから、原級留置(俗にいう留年)とする案が提出され、長い審議の末、原案通り校長が判定を下した。これらの生徒のうち幾名かはどの年にもあるような、病気などの理由で欠席時数が多過ぎたり、成績不振に陥ったりしている者であったが、2年生の7名は1月の2学期末期末テストの際に、CCUの呼びかけに応じて数学などの受験を拒否した者たちであった。しかし、受験拒否者のすべてが原級留置になったわけではない。むしろCCUの指導的立場にあった生徒たちは、第3学期の成績がよく、問題なく進級が決定していた。このことはCCUの内部に、少なからぬ軋轢をもたらしたようだった。単なる同調者は活動から後退し、急進的な者だけが留まって実力行使に訴えんとする様相を呈し始めた」

 皆さんは教員だった人以外は、高校でどう成績がつけられるか、実際の裏側の事情はご存知ないと思います。次回そのへんのことを詳しく書く予定ですので、今回は先へ進めます。

 そして3月25日の終業式を迎えます。朝、CCUは校門付近でビラを配布し、「満身の怒りを込めて学校当局を弾劾する!」と訴えました。抜粋が校史にありますので、長くなりますが、引用します。

「教師達は、我々から突きつけられた問題に、何一つまともに答えることなく、逆にそうした彼ら自身の弱さを“留年”という恫喝によって隠蔽しようとするのだ。こうした教師達の態度は、教師としては勿論、人間としても絶対許せない行為である。なぜなら彼らは、彼らに残された唯一の特権であるところの評価権を追求する部分に対して、卑劣にも共謀して弾圧を加えて来ているのだ。ここにおいて今まで我々が問題にしてきた評価権というものが、単に我々を選別し、分断し、資本家に売り渡すものとしてあるばかりでなく、まさに我々を弾圧する武器として行使されるものであるという事が明らかである」

そして今回の“留年”処置は、学校当局がCCUの解体を目的として行ったものであり、安保レッドパージであると決めつけている。またこのビラでは問題の要点として、次の4点が指摘されている。

 ①従来の慣例を破り、出席日数が足りている生徒を、成績不良を理由に留年させている
 ②評価判定が、教師の“気まぐれ”にゆだねられている
 ③活動を行っている生徒に対して、“自主退学”をほのめかしている
 ④“評価権”の乱用によって、生徒の将来が支配される」

 ちなみにこのあと、校史では①と③については、明らかな事実誤認がある、としており、それについては私から見ても確かにそう言えるとは思いますが、でも生徒の立場からはそういうことはわからないですし、この措置については私からもおおきな疑義があります。詳しくは次回に。

 さて終業式ですが、各教室で行われました。校長訓話は放送で行われたわけです。このとき、いくつかの教室では弥次が乱れ飛んだとあります。

 こうして昭和44年度は終わりますが、緑高紛争の核心部というか最大の事件は我々が3年に進級した翌4月に起こります。それは次回に。

2018/3/20
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本 太郎

【学園紛争の時代6(昭和45年1月〜2月)】

ボイコット-40-publicdomainq-0012126hqj

 明けて1月、ようやく期末テストが実施されますが、3年生の調査書作成を急ぐため、新学期を1日早くして1月7日から4日間の日程で実施されました。昨年来からの経緯からバリケード封鎖の可能性もあると考えたのか、校史には我々一般の生徒は知るよしもなかった学校側の対応が載っています。そこを引用します。

「前日の6日からテスト期間中、十数名の教員が交替で泊まり込んだ。教頭らの要請によって、若い屈強の男子教員、しかも生徒相手の議論に耐える弁舌の持ち主を中心に、噂されたバリケード封鎖に備えたのである。

 6日、宿直をした五島正樹教諭は、このときの様子を次のように語っている。
『CCUの生徒は本館2階の社会科準備室に陣取っていて、そこからヴェランダに出て、ハンドマイクで『今夜10時以後学校内にいる人間の生命は保証の限りではない』などとがなりたてていた。暗くなってから静かになったので、教員の宿所とされた西館の作法室から見に行くと、誰もいなかった。その後、午前2時頃になって、生徒会総務部の生徒が2名現れ、『機動隊は入れるな』と言ってきた。入れた場合の封鎖などの反応を心配してのことだったが、時間的にも帰れとも言えず、泊めることにし、食事をとらせたりした(談)』」

 いやあ大変なことがあったんですね。そしてテスト初日、CCUと民主化行動委は登校時に校門でビラを配り、テストをボイコットして中庭での集会に加わるよう呼びかけます。これに応ずる者が60名ほどいたそうです。ただテストそのものは定刻から実施されました。ボイコット者は徐々に減り、最終日は30名ほどだったそうです。初日に多かったのは、例の「倫理社会」のテストがあったためと校史には記されています。またボイコットはしなくてもテストを白紙提出した者も少なからずあった、とあります。テスト拒否者の数が校史に載っています。

 全科目拒否  1年1名、2年27名、3年1名
 一部科目拒否 1年4名、2年25名、3年2名

 このテスト拒否を呼びかけたCCUと民主化行動委ですが、その主張には多少の差異があったと校史は記しています。簡単にまとめると、民主化行動委は3年生と1、2年生の条件の違いを積極的に認め、3年生には強要すべきでないとするのに対し、CCUは3年にも拒否に加わるよう促していた、とあります。ただそのあとに校史はこう記します。

「しかしCCUの主張で、その急進性とともに注目すべき他の点がある。それは前述のビラに『君が次の教科のテストを受けに教室に帰ろうとする時、我々は断じてその行いを責める事はしない。なぜなら、我々も大学に行きたいし、席次を少しでも上げたいと思うからである。だが、我々は、その自己の醜悪さをゆるす事が出来ない!』とも記されていることである。この数行の文字は、彼らが単に受け売りの理論一辺倒でなく、自己を見つめる眼を併せ持っていたことを示すものといえよう。外の矛盾に対してと同様に『人間として』という問いかけを自己に向けているのである。ただその要素が一貫した理論として保たれていたかどうかは別問題であろう」

 ちなみに前回書き忘れましたが、民主化行動委は民青同盟を支持する生徒たちによって結成されています。

 さあ、重要なポイントです。こうした定期試験のボイコットに対して学校側はどう対応したか、見てみましょう。テストが終わった1月10日に臨時職員会議が開かれ、そこで議論されたようです。他の高校の例が報告されます。

 川崎高校では処置せず
 多摩高校では保護者呼び出し及びレポート提出
 希望ヶ丘高校では期末テスト零点、中間テストを半分にして評価

となっています。そして緑ヶ丘では、生徒指導部から出された原案「期末テストを零点とする」が承認されました。さらに全科目拒否者は保護者同伴の上、校長から説諭、一部科目拒否者は担任から厳重注意となりました。

 これに対してCCUは14日、「公開質問状」を発表します。

 1 学校当局は、今度テストをボイコットした生徒に対してなぜ恫喝をしたのか、また処分を行うのか
 2 学校当局と警察との関係を明確に
 3 学校当局は16日の県下一斉テストにどのように対処するのか
 4 学校当局は、テスト・評価についての問題にどのように対処するのか
というものでした。

 この日の午後、生徒総会が開かれ、3に関して論議の末、受験しないという態度で臨むことが決定、教員側もこれを受けて、県下一斉テストは実施しないことになります。そこで16日にはクラス討議と生徒総会、17日土曜も生徒総会となり、公開質問状について論議されます。この中で、1については恫喝かどうかは水掛け論となり、2については学校側は「関係ない」として押し問答の繰り返しになります。

 週が明けて1月19日、生徒側と教員側のそれぞれの改革案が発表されました。生徒会総務部からは主に討論の場をより多く確保する案が出されましたが、その生徒総会が途中で席を立つ者が多く、定数不足で結局採決できませんでした。学校側の案は教務部が作成したもので、授業形態を従来の講義形式や一斉指導形式と並んで討論形式、視聴覚形式、グループ指導形式、演習や質問による指導形式も方向として目指すとし、評価の形式や、二期制、次年度の教育課程などについて触れているものですが、まだ具体的という段階ではなく、改革案のための資料というものだったようです。そしてこの日の職員会議で生徒側の討論の場を増やすという要望に対しては、LHRを週2回に増やすことと、毎週水曜を短縮授業とし、生徒総会の時間を確保することが決まり、次年度教育課程を可決し、他の内容は3月に持ち越されます。

 校史にはこのあと興味深い記事が載っています。引用します。
「ここで当時の生徒の感想を見ることは、改革への模索の状況を理解する助けとなろう。以下は『軽震』(2年G組で当時書かれた文集)に掲載されていたものである。

『我々は一体あの長い話し合いの末、何をしたというのか。確かに授業は前とは変わった。レポート方式も用いられた。だがそれは表面に生徒の自主性をちらつかせた強要にすぎなかった。自主学習、評価反対を叫んだ我々に対しての一種のいやみともいうべき態度に思えてならない。自主的に学習研究するのではなくて、それに追いかけられている状態であった。もちろん全部がそうだといわないが、結局、先生と生徒が一体になって考えていくなどとはほど遠い、以前と本質的には何ら変わりないのだ。我々が望んでいたのは、こんな事だったのか? みんなどうしてだまっている。あの12月末の熱気、真剣さはどこへ行ったのか。緑高は先生も生徒も表面だけだったのか。』(F・N・女子)

『そもそも、社会、政治、教育改革は一度にすべて裏返すようなことには無理があるのである。むしろ、じわりじわり漸進的に変えていかねばならないのである。こんどの紛争で生徒(総会)の意志を反映しすぎてしまった。やれ“民主化”だ、“受験体制反対”だといって、学校を追及した。たしかに改革は、学校側には見られた。だが、それはあまりにも思いきった、するどい改革であったため、生徒はめんくらい気味である。学校は封鎖をおそれ、一般生徒も学校側も混乱の生徒総会の中で現状をみつめた。が、しかし、そんな中で改革を考えられるはずがない。もっともっと長い時間をかけて、ゆっくり改革されねばならない問題のような気がする』(O・K・男子)」

 両者の考えはかなり隔たっていますが、このような意見が書ける生徒が当時いたということに、長年教員をやってきた身としては、素晴らしいものを感じます。今の生徒にこういうこと書けるかしら。

 実はここを読んだときは驚きました。このO・K君は柄沢理君といって、私とは高校3年のときに同じクラスとなり、とても親しくなったのです。同じく数学科を目指す者同士としていろいろ協力して勉強したりしていましたが、あるとき、視界が狭くなったと訴え始めました。それで眼科にかかったりしたのですが、原因がわからず、その後脳腫瘍と診断され、警友病院に入院、さらに東神奈川の済生会病院に移って、放射線治療を受けましたが、残念ながらその年の秋に亡くなりました。23期生で最初に亡くなった人だと思います。その彼がこんな文章を書いていたことを知って、大変感慨深いものがあります。

 なおこの文集は当時2年G組の担任だった高津先生が日記とクラスの生徒の感想文をガリ版刷りでまとめ、生徒と保護者に配布したものということです。ちなみに私は2年C組でした。

 このあと、1月下旬は正常に授業が続き、学校機能は回復したようです。そして31日に生徒会選挙があり、会長以下4役員がいずれも再選されます。校史から引用します。

「再選された生徒会役員たちは、今後の生徒会の課題として、中央委員会対策、授業およびテスト・評価の検討、緑高祭の成功の3つを挙げ、全生徒の積極的参加を呼びかけた。しかし,長い討論の日々を経験した生徒たちの多くは、疲れ、倦怠していた」

 実際、2月4日の生徒総会は流会となり、改革に向けてのせっかくの機会が失われます。そんな中、CCUが再びビラ活動を開始します。「建国記念の日」に反対するビラは学校への影響は小さいものでしたが、次の「入試粉砕」をほのめかすビラに教職員は身構えたとあります。入学者選抜は2月20日にあり、学校側はいろいろ心配したようですが、結局CCUのメンバーが校門で受検生に対して「君はなぜ緑高を受験するのか?」と題するビラを配っただけだったようです。そこを引用します。

「そのビラには高校は企業のために人間を選別する教育工場だ、入試もその一部だ、と述べたあと

『我々は2ヶ月に及ぶ評価撤廃の闘争を通じて、自己の醜さを確認してきた。それゆえ君に試験を受けるな、とは言えない。だが、君の行為の意味を考えてくれ。苦痛の呻きをあげれば処分のおどしがかかるような緑高を受験する君に』

と、およそ入試粉砕とは不釣り合いな言葉が記されていた。教職員は安堵した」
 これを受け取った25期の皆さん、さぞ面食らったでしょうね。さあ、こうして入試妨害はなかったわけですが、次は卒業式です。次回はそこから。

 なお、今のところ、校史の紹介を中心に書いている関係で、私個人の感想や意見はほとんど書いていませんが、一通り終わったところで、特に教員を経験した者として感じたことや、他の資料の紹介を書いていきたいと思っております。皆さんもこの記事から感じたことを投稿していただけると有り難いです。

2018/3/9
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本 太郎

【学園紛争の時代5(昭和44年11月〜12月)】

学園紛争5

 修学旅行から帰ってきて以後、毎日のように2年生を中心とした生徒たちがグラウンドに近い植え込みの中で集会をもつようになります。校史には「緑ヶ丘学生新聞」からの引用がのっています。

 「11月初旬より2年の各クラスにおいて、倫理の授業がつまらない、あるいは倫社のテスト・評価は不当であるとの、ごく単純な不満と疑問が倫社の教師に向けられた。この単純な疑問は倫社の授業内容における討論の進行につれて、倫社の教科だけでは解決がつかなくなり、2年H組における現在の授業への波及を皮切りに一気に2年の教科全体への批判に変化、還元されていった。この段階において2年全体の統一組織として、各クラスからの有志が連合してクラスサークル連合(CCUと略称)が結成され、1、3年へのビラ配布、あるいは2年各クラスにおける問題提起などが精力的かつ堅固なものとなった」

 さらに校史にはこうあります。
 「CCUは校内の集会でアジ演説をし、集会終了時にはインターを合唱する他、黄色のヘルメットをかぶり、赤い旗をかざしてデモを行うなど、ラジカルな性格を明らかにしていった」

 その頃、職員側は生徒手帳の改訂作業の大詰めを迎えており、その改訂結果を審議する11月28日の職員会議で、あるビラが提示されます。それは前々日の26日に全校に配られたもので、「問題提起」と題され、次のような内容でした。署名はないものの、明らかにCCUが出したものと推定されています。

 「本来学ぶという事は、労働と並んで人間の最も基本的な活動であるにもかかわらず、一切、単位獲得・卒業・大学入試という事の中で強制されてしまっているのではないでしょうか」という訴えから始まり、次の五項目のスローガンを掲げて「全校集会」を要求したものでした。

 1 テスト・評価の廃止
 2 掲示・集会の自由
 3 授業内容の再考
 4 三徳会について明らかにせよ
 5 文部省見解について意思表示せよ
   (片倉註:10月末に文部省が高校生の政治活動を望ましくないとした見解を出した)

 このへんからは毎日のように動きがあるので、校史から日ごとに分けてかいつまんで引用します。23期生の皆さんは当時の記憶を思い出しながらどうぞ。

1日(月):この要求に関しての臨時職員会議が12月1日に開かれ、9日からの期末テスト実施が確認され、テストはやはり必要であり、評価も調査書の提出が求められる現体制では必要との統一見解が決まる。そして会議の中で、CCUが翌2日の午後に集会開催を申し出ていることが示され、テスト一週間前ということで原則認めないが、特例として午後5時までという制限つきで認めることになる。

2日(火):校庭で集会が開かれ、約80名の生徒が参加、テスト・評価に反対する意見などが出され、討論は授業内容にも及んだ。

3日(水):期末テスト直前ということで職員側は集会を認めない通知を出したが、集会を強行、約30名の参加。この強行の意図について「本人たちが後に告白したところによれば、処分を引き出し紛争の混乱状態を生じさせるという、羽仁講演の時と同様の思惑があったという」と一教諭は真相を語っている。

4日(木):生徒会執行部が新たな提案「テストの件について6日4校時にクラス討議を行い、テスト終了後全校生徒集会を開かせて欲しい」をし、職員も諒承。

6日(土):クラス討議開催、テスト・評価・授業内容について生徒会で取り上げるか否かの他に、取り上げるとしたら生徒総会の開催はテストの前か後かということについて問われ、8日、投票が行われた。その結果、圧倒的多数で「取り上げる」、時期は「前」が6割近くを得た。そのため、翌9日からの期末テストはストップとなった。

9日(火):クラス討議のあと、4校時から生徒総会が開かれ、まずCCUの生徒から問題提起の説明があった。

 「現在の学習はテストと評価のためのものとなり、生徒は競争の中へと分断され、連帯を失っている。テスト・評価を廃して人間らしく生きるような勉強をしたい。今は具体案はないが、この矛盾を見つめ、解決する中で具体案を見いだしたい。テストを実施するならその後にするようにしたい」という論旨だった。趣旨に賛成する者が多かったが、主として3年生からテスト拒否という戦術に批判が多く出された。評価が出されず、大学へ出す調査書が書かれないと、大学受験ができないとの憂慮からであった。結局次の2点を賛成多数で可決する。

 ①討議を経た後、テストを受けるか決める
 ②討議の期限を定め、その時点でもう一度考える

 この期限を決定するため、学校側にテスト延期のタイムリミットを照会し、2学期にうちに評価を出すには16日からテストを開始しないと間に合わない、また学期中にテストを終了させるには19日からテスト開始という2つのタイムリミットが学校側から示される。

10日(水):生徒総会で学校側から提示された2つのタイムリミットと、生徒会総務部提案の「12月24日まで討議」の案を巡って論議され、結局「17日まで討議、19日からテスト」の案が採択された。

11日(木)〜16日(火):連日、職員会議が行われる。生徒たちは討論の日々。
 ここでは校史から正確に引用します。

 「17日までの間、職員会議が連日行われた。生徒の質問・要望への対応の協議の他、テスト・評価をめぐる諸問題、席次・成績通知票の意義を含めた本質論が、教科毎の検討を経た上でたたかわされ、統一見解をまとめる作業が精力的になされていた。都立上野高校で11月19日から実施された自主ゼミナールの実情調査も併せて行われ、単に事態収拾をねらうだけでなく、改革を意識した努力がなされていたのである。しかし全職員が均等に同じ程度の意識を持っていたわけではない。毎日直接生徒たちと折衝する立場にある教師たち、例えば生徒会顧問や社研顧問などは、他の教師の意見をできるだけ聞いて事に当たろうとするため、会議では論議のイニシアティブをとりがちになるが、具体的に問題に関わっていない教員のうちには、熱意に欠ける者もかなりいた模様である。

 この頃、職員会議が長引いてストーブの石油がなくなっても補給されず、師走の夜の冷えきった会議室の記憶を語る教員もいるが、その理由は給油の暇を惜しむ者と、会議が更に長引くことへの用意を厭う者の両方にあったといわれる。

 他方、生徒たちは午前中にクラス討論、あるいは各学年数クラスずつを集めた縦割り方式などの分科会をもち、午後は生徒総会といった毎日であった。CCUはロマン・ロランなどを引用した文章のビラでテスト・評価の廃止を訴え、生徒会総務部はクラス討論のための資料を提供した。2年G組の討論内容を抜粋してみよう。そこには資料に基づいて真剣かつ率直な討論がなされている。例えば、『現在の授業で我々は何を(何のために)学ぶのか』という設問に対しては、『中学での知識を確立して応用する。社会へ出るための基盤的知識獲得』『自己のうちの可能性を見いだすため』『義務教育では獲得できなかった一歩進んだものを得る』『自分にとってためになる学問を得る』『疑問をもって考える能力を養う』『単位をとる』『周りの者が行くように言ったために(高校に)来た(だけ)』などの良識的な、そして正直な意見が出されている。」

17日(水):職員会議で、全職員一人一人に意見が求められた。タイムリミットを守るべきとする声も多かったが、午後9時25分に至って、期末テストは翌年1月に実施、その旨保護者に通知、19日から24日までは午前中授業との結論に達する。

18日(木):中村校長は全校生徒を体育館に集め、授業再開の方針を伝える。3年生の調査書作成の期限を理由にテストの1月実施を必須のものとし、授業改善についても再考を約束。続いて開かれた生徒総会の投票で658票対224票で授業を受けることが決定された。

19日(金):授業が再開されるも、実態はクラス討論や教師と生徒の話し合いがほとんどで、一部のクラスを除いて正常な授業には入れず。この日の生徒総会で再度投票が行われ、1月に延期されたテストを受けるか否かが問われたが、595票対306票で受けることに。この結果の背後に安保研のメンバーを中心に結成された緑高民主化行動委員会(以下、民主化行動委と略称)に代表される意見の存在が考えられる。その主張は次のようなものだった。

「評価・テスト体制に矛盾は感じられる。しかし、今そのすべてを否定し、粉砕することは不可能である。自分自身にある根源的矛盾を解決するには体制を変えるしかない。

われわれ高校生は革命組織員ではない。まず緑高という社会をできるだけ改良し、より良い学校生活を送れる場にしていかなければならない」(緑ヶ丘学生新聞より)

 このような民主化行動委の改良主義的主張(テスト中止・授業改善・討論併行)とCCUのヘルメットデモを伴うラディカルな行動と主張(テスト廃止・授業中止・討論専行)が対立する中で、一般生徒は次第に討論に飽きていく。

22日(月):自主ゼミ等の具体的方策が議題に予定されていた生徒総会が定足数を満たさず流会となる(3年生の多数が欠席のため)。

24日(水):2年G組の生徒が「緑高平和主義学生同盟」の結成を告げるビラを配布、テスト廃止、自主ゼミ採用をスローガンとする。こうして生徒側の意志は更に分化していく。

 ちなみにこの頃西館の改築が終わり、木造の東館からの移動作業が年末にかけて行われています。こうして昭和44年が終わります。

2018/3/5
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本 太郎

【学園紛争の時代4(昭和44年4月〜10月)】

船-20-lgi01a201410140400修学旅行-60-02FF0695153

 21期生が卒業していき、4月になり、始業式を迎えます。この当日に、「『横浜緑ヶ丘高校反戦共闘会議結成宣言』なるビラが各クラスの机の中に入れられていたが、これがどのようなグループのものなのか、その後の動きも不明である」と校史にはありますが、私自身、このビラの記憶はありませんが、後にわかったことによると、10月に結成されるCCUの中心的なメンバーによるものでした。ところがこのあと、奇妙なことが校史に書かれています。

 「しかし、この頃職員の間で穏やかならざる問題が取り沙汰されていた。これまでの事態の推移を見て、対策を協議している職員会議の模様が、生徒側に漏れているという節があったからである。生徒側の反応が非常に早く、職員会議の翌日には、もう既にその内容に即した動きをとるということがたびたびあった。それだけでなく、職員会議で誰がどんな発言をしたかまで生徒が知っていることがあり、職員を驚かせた。更に生徒側の意に添わないような発言をした教師の名の下に『殺せ』と書いた落書きが、教室や廊下の壁に現れるなど、職員会議での討議内容が生徒側に漏洩していることは確実であった。その後、一教員が情報を流していた事実を知った同僚の教員が、本人に対して会議の性格について説き、自重を促したという。その結果、このような事実はなくなったという。」

 こう書いてあるのですから、そのようなことが確かにあったのでしょうが、具体的に誰かは当該の職員、生徒しか知り得ないことなので、紹介のみに留めます。当時の情勢を考えると生徒の活動を積極的に応援する教員がそれなりにいたわけで、それはいかにも緑ヶ丘だな、と思える訳があるのです。なぜそう言えるか、ここで私自身が教員になって知ったある事実を記したいと思います。

 それは緑ヶ丘が「拠点校」とされていた、という事実です。「拠点」とは何か、組合の拠点という意味です。私の記憶では、他に希望ヶ丘高校と平沼高校があります。これは昭和33〜35年にわたるいわゆる勤評闘争が背景にあります。詳しく書くときりがないので、結果だけ書きますと、これで高校の教員組合は分裂します。正しく言うと分裂させられます。第二組合というのができるわけです。これは県の教育委員会の策動とされています。そして各高校に散在していたいわゆる活動家と言われる教員を、ある特定の高校に集めてしまい、それ以外は(県から見てのことでしょうが)「正常」な教育活動ができるようにしようと考えたわけです。そのために拠点校なるものが決められ、他の学校から活動家を強制配転します。皆さんの中にも聞いたことある人もいるかも知れませんが、某先生は「自分は本来翠嵐高校にいるはずなんだ」と事あるごとに言っていた人がいました。

 後に希望ヶ丘に勤めることになりますが、ここには「自分は秦野からこっちに強制配転された」と言っていた人がいました。私が知る実例はこのお2人だけですが、かなり強引なことが行われたわけですね。もちろん強制でなく、通常の人事を通して動かすこともしたわけで、そんなわけで拠点校というのができ、この3校は全員が組合員(もちろん第一組合)という高校になります。これを教育界の業界用語で「統一分会」と言ってますが、まあそういう色彩を持った教員集団だということです。もちろん、大方の人はごく普通の意識の教員だったわけですが、政治活動が好きな人が一定の割合いたということでしょう。ちなみに第二組合は一時大きな勢力を持ちます。昭和37〜39年に次々に新設高校ができます。

 具体的には「川和、新城、追浜、相模原、茅ヶ崎北陵、大和」などですが、これらの高校は第二組合に移った教員が中心になって開設されました。その特徴は、従来の伝統校がのんびりやっているのに対し、学習指導に力を入れるというものです。第二組合の先生方は、基本的に県の方針に忠実で、政治的なことより学習指導に力を入れる、というタイプ、私から見るとさらにその上に管理職への志向が強い人たちである、と言えます。私も初任校に第二組合の人が多く、いろいろ見てきているので、そう言っていいかなと思います。大雑把に言うと川崎横浜地区の高校は第一組合が強く、西の方、特に相模川の西半分は第二組合の強い学校が多いという傾向でした。我々は「川向こう」と呼んでいたものです。ちなみにこのあと、高校が沢山できるのに伴い、沢山の新採用をとる中で、第二組合はどんどん勢力を失い、ほとんど消滅していきます。

 さあ、話を進めましょう。そして5月、例年行われる文化祭ですが、この年から文化祭は『緑高祭』と改称されました(今もこの名称です、ただし7月初めです)。この年は5月10&11日に開催されましたが、そこで起きた出来事が校史に載っています。社会科学研究クラブ(以下社研)が「三里塚の夏」という映画の上映を要求してきたのです。校史によるとここでいろいろ交渉があったようですが、結果的には許可されます。ただその上映場所が校史では宿直室(現在の書類倉庫)になった、と書かれていますが、これは私の記憶とは違います。北館2階の物理室だったかと思います。立ち席が出るほど一杯でした。今でもよく覚えていますが、闘争のあとの大地を空撮しているシーンがあり、そこにBGMとして、ベートーヴェンの第九の終楽章の後半、合唱が流れます。ちょっと感動的でしたね。私はこの映画で国家権力というものの実体を認識したと思います。東大闘争で、機動隊が導入された様子はなかなかショッキングでしたが、こちらは農民たちが自分たちの土地を守りたいという当然の運動を機動隊がつぶしにかかるわけで、国の言うことを聞かないとこういうことになるんだ、と国家権力というものの恐ろしさを感じた映画でした。

 そしてここで校長が代わります。それまでの金子英二校長は退職、確か相模女子大の講師になられたと記憶しています。始業式や終業式ではよく川端康成の話をしていましたからね、ちょっと学者肌の人だったのかもしれません。そして新しく多摩高校から中村隆市校長が赴任します。当時は管理職は9月の異動でした(その後、4月に変更)。そのときは予想できるわけないですが、中村校長はこの後、7年間緑ヶ丘に在職します。その前の多摩高校に2年いたはずなので、合計9年間校長として過ごしたわけで、これは校長の在任期間としては異例なほど長く、つまり県としては実力者を緑ヶ丘に送り込んだ感じになります。校長の人事については、またいずれ触れたいと思います。

 そしてその後、大学紛争が鎮静化するのと対照的に、今度は高校での紛争がエスカレートしていきます。都立高校がかなり荒れたわけですが、神奈川でも川崎高校が10月11日封鎖、鶴見高校が10月13日封鎖、希望ヶ丘高校が10月23日封鎖と連鎖していきます。特に川崎高校では女子生徒の八丁畷駅での投身自殺というショッキングな事態が起こります。このとき、川崎高校に新聞部の友人と取材に行っていたような気がするのですが、記憶があいまいです。

 そして10月24日に我々は修学旅行に出発します。寝台特急という生まれて初めて乗る列車にゆられて九州を目指しました。そしてその最終日を控えた前夜に事件が起こります。校史によると

「帰路、別府から大阪までは夜の瀬戸内を船で進んだのであったが、その船中で一部の生徒から『船室が狭く、十分に手足を伸ばして眠るわけにはいかない。楽に寝られるようにして欲しい』との要望が出された。これは船室の定員配当が遭難時の安全脱出のため、下の階ほど少なくなっているという事実を、周知徹底させておかなかったことによるもので、上の階の生徒が部屋割りの不公平と考えた結果、起こった不満であった。急遽、部屋割りの組み直しが行われたが、生徒たちは納得せず、ここまでの旅の不満などが一挙に吹き出した。その上、引率教員の船室が生徒たちの畳敷きの大部屋から離れた一等船室であったことも、生徒たちの不満を募らせることになった。長い旅の終わりの疲れも出ていたのであろう。しかし,船は満室であり、生徒たちの要望は叶えられなかった。

 不満を訴えた生徒たちは、不満をもつ他の生徒たちを急遽集めて、船中で教師団と異例の団体交渉を要求した。教師団はこれを容れた。交渉は延々と続けられたが、結論の出る筈もなく、生徒も教師も精根を使い果たして、解決を見ぬまま旅行は終わった。生徒側には学校不信、教師不信のしこりが残り、教師の側には修学旅行の苦い教訓と生徒集団に対する対応についての反省が残った。」

 そのときの団体交渉の写真が卒業アルバムに載っていたと思いますが、私はどうも記憶がないのです。何か騒々しいことが起きているということくらいは承知していたと思うのですが、覚えているのは、夜、デッキに上がってみると、いたるところカップルがくっついて海を眺めていた、あの光景。そんな相手などいようはずのない私はそれを指をくわえて眺めていたというわけです。

 この修学旅行から帰って以後、CCUが組織され、活動が活発化し、紛争と言える状況になっていくのです。

2018/3/1
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本 太郎

【学園紛争の時代3(昭和43年12月〜44年3月)】

学園紛争3

 前回は事態の推移ばかりの話でしたので、ここで私自身がどう感じたかを書いてみたいと思います。実はちょうどそのとき、私は中央委員でした。別になりたくてなったわけでなく、1年の担任だった大学先生の方針で、各種委員はアミダで決められたような記憶があります。そんなわけで何もわからず中央委員になってしまったのですが、委員会での3年生と生徒会顧問の応酬を見てびっくりしたものです。先輩たちが先生相手に対等に議論しているように思えたのですね、さすが高校生ってすごいな、と感心したものです。そんなわけで制帽問題にも講演会問題にも中央委員としてその成り行きを目撃してきたわけで、当然関心も一般生徒よりは少しは高かったのでしょうね。

 羽仁五郎氏の講演は、ノンポリ生徒だった私にもそれなりの影響を与えたようで、講演会のあと、その速記録を買ったのは前回書きましたが、さらに名著とされる岩波新書の「ミケランジェロ」と、出たばかりの勁草書房の「都市の論理」(まあこの本の宣伝をしに来たようなもの)を読んだものです。もちろん書いてあることをちゃんと理解できたとは到底思えませんが、羽仁氏の書き方はなかなか煽動的であり、面白いことは確かでした。特に自由な市民を象徴するのが都市広場というもので、広場がない都市は都市なんて言えない、その点、日本の都市は広場らしいものはない、なんて話には結構興味を持ったものです(後日談:そんなところから西洋の都市の広場に憧れて、後年、あちこち見て回ったものです)。

 まあそんなこんなでもともと歴史が好きだったこともあって、このあと2年になってから、中央公論社が出していた「世界の歴史」全16巻を読み始めます(余談ですが、後年、鉄道ファンにはおなじみの宮脇俊三氏の本を読んでいたら、彼が中心になってこの出版を企画編集していたらしいですね。東大の史学科卒ですものね。さらに余談ですが、彼の友人かつ隣人が北杜夫という人で、その縁で有名な「どくとるマンボウ航海記」が書かれて、中央公論としては破格のベストセラーになり、宮脇氏の出世につながります)。とても面白く、大学は歴史科に行こうかな、なんて思ったこともあるくらいですが、たまたま数学が面白くなり、そっちに行くことになります。他に羽仁氏が言及していた野呂栄太郎「日本資本主義発達史」が緑の図書館にあったので、一応借りて読み出したことがあります。ところがどうも社会科学の本というのは、私の頭脳では理解できないせいか、ほとんど興味を見いだせず、あまり読まないまま返却したものです。まあこんなわけでせっせといろいろな本を読んだわけですが、政治的な「行動」をすることはなかった、つまり刺激を受けたけど、それが「行動」にはつながらず、読書につながったというわけですね。

 さてさらにその後、羽仁氏は希望ヶ丘高校で講演をしたと前回お伝えしましたが、その様子を「希望ヶ丘百年史」から拾ってみたいと思います。こちらも生徒主催で開かれたようで、こうあります。
安田講堂事件の衝撃さめやらぬ1969年2月15日、著名な反体制思想家羽仁五郎の『大学について』と題する講演会が開催された。当日はマラソン大会終了後の土曜日であったにもかかわらず、3年生を含む五百余名の生徒が参加し、さらに終了後の座談会にも二百余名が参加するという活況であった。そもそもの発端が生徒有志の要求であり、生徒会総務と職員側の数次にわたる折衝を経てようやく実現にこぎつけたものであることを考えると、アパシーや『神高病』を自ら打開しようとする志向も、また少なからず存在していたということができる。」

 余談ですが、時代背景の一面として紹介したい話があります。ネットに載っているもので正確かどうかの保証はないですが,次のようにあります。
 「1967年4月20日、日大経済学部の新入生歓迎会で講師に招かれた羽仁の講演を、体育会学生と応援団が乗込み、妨害した。執行部学生に暴行を加え、歓迎会の解散を認める署名を強制した。羽仁に対して、ヤジや罵声は収まるどころかいっそう増し、『アカ』『ジジイ引っ込め』などの罵声を受けた。羽仁は演壇上に立ち往生し、身の危険を感じて退避した」

 余談ついでにもう一つ。羽仁五郎の妻の説子さんの母は羽仁もと子さんといい、自由学園をいう学校を創設、今もその最初の校舎が池袋駅のすぐ南に残っています。「明日館」という校舎で、帝国ホテルを設計したあのフランク・ロイド・ライトの設計です。とても素敵な建物で、見学もできます。ちなみに国の重要文化財で、建築の世界では超有名です。

 さて話を進めましょう。翌年、昭和44年初頭の状況を思いだしてもらいます。なんといっても最大の話題は東大安田講堂の攻防戦、そして東大入試中止という史上初の事態が起こりましたね。そして21期生が卒業するときの卒業式でも混乱が起きました。前回紹介した反戦高委は、実は3年生が主体でした。校史には「21期生10名、22期生1名、23期生4名であったといわれる」とあります。ですから2月からは3年は自由登校なので、活動家たちの照準は卒業式に向けられることになります。校史によると

「当日は、山手駅から学校までの電柱に、『卒業式粉砕』と書いたビラが貼られ、登校してくる生徒たちに『君が代日の丸反対』という趣旨のビラ約300枚が配布された。また、開式直前になって一部の生徒が校長室に入り、校長に対して君が代斉唱中止を要求した。校長室でのやりとりのため、開式が約10分遅れたが、式はとどこおりなく進行し、君が代斉唱となった。全員起立で、君が代を歌い始めたとき、数名の者が『君が代斉唱反対』『形式的卒業式反対』『私は君が代を歌っていません』などと書いた巻紙をひろげ、他の数名は起立せず斉唱を拒否した。来賓の挨拶は省略されたが、卒業式は上の他は大きな混乱もなく、約40分で終了した。

 式後、各クラスで担任から卒業証書が渡された。職員の事前の申し合わせでは、騒いだ生徒には証書を渡さないということだったので、混乱もなく式が終わって、担任の安堵はひとしおであった。こうして高校21期399名は卒業していった。

 翌3月2日の読売新聞京浜版は、写真入りの7段抜きで、『君が代斉唱で拒否騒ぎ—緑ヶ丘—出席父兄呆然』『式場に反対のプラカード』という大見出しの記事を掲載した。式場の様子や式の経過を報じた後、『同校では、一応大きな混乱もなく卒業式を終えたことを一応の成果と見ているが、今後も思想的に未熟な高校生が過激な行動に走らないよう、話し合いによる指導を続けていく方針』と伝えている。こうして公になったためか、県教委から、君が代反対に加わった者の氏名を調査して報告するようにと命じてきた。学校は調査の上、県に報告したが、それ以上のことはなかった。」

 全国的にもこのときの卒業式は荒れた学校が多かったようですが、一方、希望ヶ丘の卒業式は、希望ヶ丘百年史によると

「本校卒業式は表面上、平穏裡に挙行された。卒業式の簡素化要求という形で、各クラス2名の代表から構成される準備委員会の手で答辞が作成されたこと、『仰げば尊し』が式次第から削られたこと等に若干の改善がみられる」

 こうして昭和43年度は終わります。次回はいよいよ我々が2年生になっての話、そしてあの修学旅行の話になります。

2018/2/20
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

【学園紛争の時代2(昭和43年11月〜12月)】

学園紛争2

 では「制帽廃止のお願い書」の問題からいきます。
「校史」によると

 「緑高においても、他の多くの高校と同様に服装規制の緩和の要求が紛争への導火線となった。具体的には、男子生徒の制帽廃止要求であった。このことに関する問題提起は、夙に昭和42年度の「緑ヶ丘学生新聞」に二度にわたって、論説が掲載されるなどの形でなされてきたが、生徒会の関係機関に正式に取り上げられたのは、昭和43年1月29日の中央委員会においてであった。」

 当時在校されていた方はご存知だと思いますが、制帽があるといっても実際にはかぶってない生徒も多くいました。当時の生徒会調査では約3分の1が登校時無帽、希望としては6割が無帽を希望していたとのことです。職員もこの実態を前に、いずれ自由化に踏み切らざるを得ないとの認識はあったものの、全体としては時期尚早と考えていたようです。

 そこで生徒会に対しては、「要求書」でなく「お願い書」という形で出すよう指導したようです。これは当時の英芳博生徒会会長&早川修中央委員会議長の連名で出されました。
 この前の段階で、当時の金子校長の指示で県下のいくつかの高校の状況を調査した結果が「校史」にのってます。

 ①着帽が望ましい:県立商工
 ②生徒の自由:県立川崎、川崎工業、市立川崎、市立橘(片倉注:すべて川崎市内)
 ③無帽:貿易外語、港北(昭和44年開校予定)
 ④無帽を黙認:希望ヶ丘
 ⑤検討中:鶴見、多摩、小田原、逗子

さてそのお願い書ですが、翌年1月の職員会議で次のことが決まったようです。

 ①無帽の黙認
 ②ただし生徒心得を早急に検討して改正した上で、生徒に正式に伝える
 ③集団行動(社会見学、修学旅行等)では、従来通り着帽

 こう決まったものの、実際にはまだ生徒全体としての関心が低い、ということで改正への動きは保留されたようです。

 この問題は一見、紛争と無関係のようですが、それを紛争への序章ととらえるべき、との指摘がある教諭からなされています。後に神奈川県高教組の委員長となる岩佐先生は生徒会顧問として直接生徒と対応された人ですが、「校史」によるとこう語っています。

「制帽自由化要求そのものが紛争を直接引き起こしたというべきでなく、意図的に紛争を引き起こそうとしていた意識層に利用されたと捉えるべきであろうことは事実が明らかにしている」

 次にこれに関連して「羽仁五郎講演会」に移ります。実はすでに密かに結成されていた「緑高反戦高校生委員会」(以下反戦高委)が生徒会執行部にいた一部の生徒(民青系らしい)と秘密裏に連絡をとり、生徒会組織を通じて「制帽自由化運動」を、裏では反戦高委が「講演会企画委員会」を構成して、生徒主催の講演会開催を要求するという作戦のようだったのです。

 講演会は毎年恒例の学校主催行事で、この年は12月に旺文社の人を招いて「進路と学習」という題で行われる予定だったのですが、それがさきほどの「お願い書」と同じ日に、この企画委員会から生徒主催の講演会実施周知のためとしてポスター掲示の許可を生徒会顧問に求めてきたのです。しかも日時は12月の弁論大会終了後と既定のことと書かれてあったようです。

 顧問側は講師未定などを理由に1月に延期するよう説得したようですが、結局企画委は無許可のままステッカーなどで宣伝し、同時に講師の人選をしていったようです。この時点での講師候補は宗像誠也、家永三郎、羽仁五郎など5名だったといいます。

 教員側はこれを知って、生徒会の5000円の予算では来てくれそうにない人ばかりだし、もう12月の予定は埋まっているだろうから、実現は無理だろうと思っていたようですが、これが甘かったのですね。なんと企画委は12月4日に中央委員会を顧問に連絡なしで開催し、羽仁五郎に決まったと報告、中央委員会の諒承を求めたのです。こうして「高校生活について」と題する羽仁五郎講演会が生徒段階では決定されました。

 これを受けて生徒指導部の教員たちは、協議していく中で、事態収拾のためには受け入れもやむを得ないとの判断になり、可否を決定する臨時職員会議が12月11日に開かれます。論議は白熱、5時間に及んだそうですが、結論としては認めることになりました。金子校長はこの会議で次のような所信を述べたそうです。

「①全職員が結論に従って十分努力すること
 ②どこまでも生徒のためを考えてやること
 ③伸ばすべきものは伸ばし、抑えるべきものは抑えること」

 そして12月21日当日、羽仁氏は山手駅から歩いてきて校門を抜け、職員と言葉を交わすことなく直接体育館に入り、講演を始めます。
その内容は「校史」によると

「『あくまで参考として聞いてほしい』と断りはしたが、きわめて鋭いものであった。最初に明治百年に日本がすべきことは、中国朝鮮との国交回復であり、それが人間を人間扱いしないファシズムからの訣別であるという。このファシズムこそ、人間ひとりひとりの権利を守ろうとする市民の論理を圧倒する独占資本の論理だと規定し、大学紛争は大学生が独占資本の論理とたたかって学問の自由を守ろうとしているものだと説明した。」

 明治百年、そうか、今年が百五十年ですから、今から50年前のことなんですね。まあこの講演は一部の生徒には大きな感銘を与える一方、勝手なことを言っているだけだと思う生徒も多かったとも言えます。

 そしてこの講演は速記部の生徒によって速記印刷され、確か50円で売られたと思います(私は買いました)。ところがこの講演録がある保護者から評論家の細川隆元に流れ、その結果、翌年2月2日のTBS「時事放談」で彼がこの講演会についてふれ、

「こんな(原注:紛争の火に油を注ぐような、の意か)学校はつぶしてしまえ」

と発言したのです。このときにはそれほど問題にならなかったようですが、3月発行の「週刊新潮」に「革命煽動家羽仁五郎一家の貴族的生活」という記事が掲載され、その一部に緑高での講演が問題にされるに及んで、波紋は大きく広がっていきます。金子校長のインタヴューも掲載されていたようです。その内容は「校史」によると

 「羽仁さんを呼ぶ企画をしたのは学校ではなく、生徒会なんです。最初は“授業時間は割けない、費用がない”と認めなかったのですが、生徒たちが“放課後でよい、費用は生徒会でもつ”と条理をつくしてきましてね。“講師は”と聞くと“羽仁さんに電話したらタダで行ってやると言った”というわけです。

 いよいよ断る理由がなくなった。それでも許可を出す職員会議は5時間もかかりました。そりゃ先生の中には羽仁さんを個人的に支持する人もいるでしょうし、なかには古いと思われるのがいやで、羽仁さんに興味をもっている人もいるでしょう。しかし羽仁さんの話を生徒に聞かせるかどうかについては慎重ですよ。でもムゲに断って、不満が出てそれが大きくなってとんでもない方向に発展しては困る。それにしても前もっておだやかに頼みますよとお願いすべきだったかなあと残念に思っています。」

 この後、なんと校長は県会に呼ばれることになります。「校史」によると

「この『週刊新潮』」の記事などが発端となり、3月18日県会文教常任委員会で、羽仁五郎講演(2月15日に希望ヶ丘高校、3月に法政工業でも行っている)が問題にされ、金子校長が喚問されたが、3月20日の職員会議に報告された限りでは『十分事後指導をすること』という結論で終わり、喚問は一度だけで済んだ。」

とあります。実際、そんな軽いことで済んだかどうかはわかりませんが、校長はそう報告されたらしい。教員もほっとしたかもしれませんね。(以上)

 これで昭和43年は終わりましたが、これからが本番ですからね、だいぶ長くなりそうです。

2018/2/9
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

【学園紛争の時代1】

学園紛争

 高校23期の片倉です。今、私の手元に「横浜三中・三高・緑高六十周年誌」という本があります。昭和58(1983)年の創立60周年に合わせて編集され、この年の11月に発行されたものです。A5版560ページ、厚さ3.4cmに及ぶ大部なもので、とても立派な本に仕上がっています。中身も大変読み応えがあるもので、次の9つの章からなっています。

 1章「横浜三中草創の時代」
 2章「昭和初頭の時代」
 3章「戦時下の横浜三中」
 4章「校舎も校庭も消えた敗戦の時代」
 5章「新制高校発足の時代」
 6章「昭和三十年代の緑高」
 7章「学園紛争の時代
 8章「安定の中の緑高」
 9章「緑高の現況と展望」

 ここで我々23期生のいた時代にちょうど対応するのが第7章「学園紛争の時代」です。まさに我々はそのまっただ中にいた学年になるわけです。当時のことを部分的にでも知るのは21期から25期の皆さんだけで、その他の期の皆さんには直接は関係ないことですが、あの当時実際にどういうことが起きたのか、私の筆力では到底書き尽くせない内容ではありますが、これから何回かに分けてこの本(以下「校史」)と私のおぼろげな記憶や感想を元に書いていきたいと思います。
 まずどんな事態が起きたのか、主要な出来事を校史から拾って時系列でお示ししましょう。ちなみに我々が入学したのが昭和43年、卒業が46年です。

昭和43(1968)年
 9月22日 緑高反戦高校生委員会が秘密裏に発足(以下反戦高委)
 11月28日 「制帽廃止のお願い書」が生徒会から職員会議に提出される
 12月21日 講演会企画委員会により「羽仁五郎講演会」実施される

昭和44(1969)年
 3月1日 卒業式での「君が代斉唱拒否」運動(翌日に新聞記事)
 5月   緑高祭での「三里塚の夏」上映
      (この頃、大学紛争が鎮静化する一方、高校紛争は逆に活発化し、10月には川崎高校、鶴見高校、
      希望ヶ丘高校で封鎖という事態に発展)
 10月29日 2学年(23 期生)の修学旅行の帰途、瀬戸内海の船上での団体交渉
 11月   CCU結成
 11月26日 「問題提起(5項目要求)」ビラ配布される
 12月  (核心といえる時期)
   2日 校庭での生徒集会
   6日 クラス討議
   9日 期末テスト初日なるも中止され、クラス討議と生徒総会
   10日 生徒総会
      (以後、午前中はクラス討論や数クラスによる分科会、午後は生徒総会といった毎日が続く)
   18日 校長、全校生徒を集め、授業再開の方針、期末テストは1月に延期して実施
   19日 授業再開されるも正常に授業がなされたのは一部のクラスのみ
      生徒総会で教員案の受け入れが投票で決定
   22日 生徒総会が流会(3年を中心に欠席者多数)

昭和45(1970)年
 1月7〜10日 順延していた期末テスト実施→テスト拒否者続出
 1月19日 生徒職員双方の改革案
 3月1日 卒業式での混乱(翌日に新聞記事)
      (翠嵐高校と川崎高校では卒業式を中止)
 3月23日 成績判定会議で大量の原級留置者決定
 4月6日 入学式場にデモ隊突入
 4月10日 職員室逆封鎖
 4月14日 生徒総会→この日から秩序回復、平常に向かう

 どうでしょうか、思い出されたでしょうか。最初は21期生が行動し、そのあとを受けて一つ飛んで23期生が主体となりました。あの時期、ご自分がどう考え、どう行動したかも記憶が甦ってこられたことと思います。私自身でいいますと、基本的にノンポリでしたが、ただ流されていたというよりも、一体何が起こっているのかを知りたくて、いろいろなところに顔を出して見聞してきたように覚えています。友達経由で手に入れた民青新聞や前進(中核派の機関誌)、解放(革マル派の機関誌)を家で親に内緒で読んでいたことを思い出します。ただ実際に行動することはなく、日和見と言われても仕方ない態度だったと思います。しかしこの紛争を通して得た経験は、実際に自分が(全くなるつもりのなかった)教員になったあと、教育観や日頃の行動に大きく影響していたんだなあ、とつくづく思わされます。

 また校史は教員が書いたわけで、当然ながら我々生徒からは窺えなかった教員側の対応が詳しく記されており、とても興味深く読みました。私自身がその後、いわば同業者になったわけで、そういう教員側からの視点を、実際に教員として感じたことも合わせて紹介できると思います。
 では次回から何回かかるかわかりませんが、詳しく記していきたいと思います。とりあえず次は「制帽廃止のお願い書」と「羽仁五郎講演会」を予定したいと思います。

2018/2/3
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

思い出の記3 藤田衆 級友たち

友達

 新入生の時期と言うのは高校生活に初めて接したときで、見知らぬ人が多いわけでもあり、また3年生のように文系理系に分かれていないからより多くのバラエティある級友に出会った。1年のクラスでまず目立ったのは「たかし(漢字はいろいろだったが)」という名前が多かった(少なくとも5人はいた)ことで、何故か長身が多かったが彼らが互いにたかし、たかしと呼びあうので少なからず混乱した。なかでも手島隆君小川貴志君とは仲が良くなり、これに山本君鶴君をくわえてよく放課後にトランプをやった。鶴君は卓球をやっていたスポーツマンでおしゃれな今考えるとかなりかっこいい少年で(当時は男の美形などと言うものは考えたこともなかった)しゃべる時にもいつも形を気にしているところがある。彼に一番感心したのは国語の時間に横光利一の『蠅』が取り上げられたことがあって、一体これは何が言いたいのだろうと僕が口にした時正確には覚えてないが「運命というものは誰にも予見できないままにいろいろな人に襲い掛かってくるということさ」と言うような内容のことをサラっと言ってのけなるほど文学というものはこういう風に読み解くものか(つまり作者の視点を考えると言うことだと思う)と眼を開かれた気がした。

 僕は文学部に進むのだがその文学解釈の根底には常にこの経験があったと思う。彼がナポレオンのやり方を教えてくれたのだが、それは巷でよく行われるものと違ってオールマイティ、すなわちスペードのエースをいつ出してもかまわないという特別に強い切り札とするものだった。これは5人でやるにはちょうど良かったのだが、やがて鶴君があまり参加しなくなって4人になってしまうとナポレオン側に有利になりすぎると言うこともあって手島君がコントラクトブリッジを教えてくれた。彼は親が航空会社に勤めていて休みにはアラスカに行って鮭釣りをしたり子供のころハワイにいたりしたものだから英語は苦もなく操っていたし、西洋流の遊びにも詳しかったのだ。

 後に彼が家に遊びに来た時一緒にテレビを見たらアメリカンフットボールをやっていて、ぼくにはちんぷんかんぷんだったが彼はこういうことなのだと説明してくれた。それでたちまち分かるほど簡単ではなかったが、その後アメフトを見て楽しむようになったのは彼の影響である。とにかくこれでブリッジが盛んになった。提案者の手島君がうまいのは当然として、小川君が同じくらい強くなった。どうも勝負事になると強いという人はいるものだと思う。僕も山本君もそういう方は駄目だったと見えて間もなく勝ち組と負け組がはっきりしてきたが高校生では負けても楽しく遊べればよかったのだ。この時に妙な新語を使うのが流行り、僕は国語の時間に「夏川を越すうれしさよ手に草履」という俳句を習ったのをきっかけに、「こすうれしさよ」→「このうれしさよ」→「この…さよ」という連想から手に草履と言う言い方を単なる強調の副詞のように使ってみた。それでとりわけトランプが配られたときに自分の手を見て「このひどさ手に草履だね!」などと言うようになった。小川君はこれに対抗するように「ゴリラの逆襲」という言葉を流行らせたが、もとはむろん「ゴジラの逆襲」で、これを一字変えることでなんとなくユーモラスな雰囲気を出すことができた。ブリッジをやっている時最初に宣言組に押しまくられた阻止組が後になって残ったカードで押し返す時に「ゴリラの逆襲!」と言いながらカードを切ったのだ。

 小川君についてはスポーツ大会での激走も記憶に残る。50m走だったと思う。同走には陸上部の安藤君がいて(彼が体育の時間で模範としてハードルを跳んで見せた時初めて見た級友たちはその美しいフォームに感嘆した)優勝候補と思われたのだが、スタートで誰かと接触して転んでしまった。すると小川君が長身を生かしてきれいに両手を振りながら圧倒的な一位で走りこんできたのだ。手島君は頭も良く(東大理1に進学)スポーツも万能だった。良く覚えているのは蹴上がりをすることになった時3人ひと組になり、僕ともう一人は支えてもらって何とかクリヤしたのだが手島君を支えようとすると、「蹴上がりくらいに支えなんか必要ない」と言って軽々とやってしまったことである。この二人がサッカー部に入ったのはしたがって必然だったのだろう。確か山本君も一緒に入ったと記憶している。彼はうらやましいくらいきれいにウェーブした髪の毛をしていてこれは僕ですら美少年だなと思った。いかにも甘えん坊と言う風貌で言葉などもそんな感じがあふれていた。ただ、当時僕は女子にあまり興味を持っていなかったために(今から考えれば不思議だが)山本君がどのようにその美男子ぶりを持って女子生徒と付き合っていたかは全く知らない。

 音楽と言うのがスポーツやトランプに次いで当時級友との共通の場になったと思う。フォーク全盛のころでギターを弾いたりする人は多かった。PP&Mが好きだったが、当時の僕の小遣いでは自由にレコードも買えなかった。その時級友の一人(申し訳ないが顔は鮮明に思い出すものの名前が出てこない)が、それも隣の子に借りたLPを何枚も貸してくれた。彼はPP&Mのことになると相当なマニアでLPの名もきちんと「See what tomorrow brings」とか「In the wind」とか原語で呼んでいた。

 しかしクラスにギターが持ち込まれた時にそれを演奏して見せてくれたのは田中君で、それもVery last day, Man of constant sorrowのようなかなりマニアックなファンでないと知らないような曲をやって見せたのだ。他にJoan BaezのPortland Townのような難しい曲のスコアも見せてくれた。そういう状況を見て津田君が3人で一緒に学園祭でフォークをやらないかと持ちかけてきた。高石ともやのLPを貸してくれてこれでコードを取って見てくれないかと言うのでやってみて初めて、プロと言うものはこんなに高い音域で演奏しているものだということが実感できた。結局学園祭のことは実現しなかったのだが津田君の万能ぶりも見事で、彼は1年生の音楽のテスト(田頭先生は何をやってもいいという試験を実施していた)でクラリネットを演奏したし、2年生では友達にトロンボーンなどの応援を頼んで自分ではドラムをやったのだ。ドラムソロと言うのは自分では全くできないし、いかにも即興と言う感じがうらやましかった。津田君はバレー部の部員だったからスポーツ大会のバレーの試合では大活躍だった。ただ、部員は1チーム一人しか出られずBチームに回されたので面白くなさそうだったがこのチームはほとんど彼一人で持っていた。スパイクは一人で打っていたし、反対側を向いて妙な回転の付くサーブを打つのが力があるわけではないが変化して取りにくいのが印象に残っている。この時僕も出ていて最後に相手のサーブをミスして負けることになってしまったのが残念だった。

2018/1/29
記事作成者 高校23期 藤田 衆
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

思い出の記2 藤田衆 (先生方

校長先生

 前回の記事の後池田会長より当時の職員在籍表をいただきいくつか誤りが判明した。ますもと覚えていた体育の先生は瀬下先生であり、瀬下とされていた数学の先生は下村先生だった。この先生は肌が弱いので指にテープを巻きつけてチョークを握っていらした。小さい体育の先生としたのは岡村先生である。この人と加藤先生、それから女性の松下先生とであの体育館の壇上に上がり、体育祭のための踊り「松島~の」という民謡を模範演技してくれた時のことが最も印象深いのだが、この民謡は最後が「ありゃりゃりゃりゃ~」という掛け声で終わる。その時の所作は示されていないこともあって皆てんでに頭上で両手を振り回したりしておどけた。加藤先生が苦笑いしながらあそこでは何もしないで静かに終えるようにという指示を出された。化学の豪傑張りの先生は中村順二先生だった。この人は修学旅行の時博多で駅では立ち食いそばが、町にはこれこれ言う店があってビーフシチュー定食がおいしいよと教えてくれ、駅ではほとんど時間もないのに立ち食いそばを小川君がかきこんでいたし、自分など夕食で腹いっぱいだったのに関君ほか数人がシチュー定食を食べに町へ出た。前に漏らした先生としては地理の小泉先生に関して、少し太っていらした記憶があるのだが、生真面目な割に請けを狙ったようにアメリカの農業地帯の話で「豚が丸々と太り」と説明なさったので皆思わずふいてしまった。ある時授業中に紙飛行機が黒板の前あたりを飛んで先生が誰の仕業かと尋ね、誰も出ないと男らしく名乗りなさい(女の子はこんなことをしないと最初から思っていらしたのだろう)というと潔く小川君が前に出た。決して爆発することなく静かな口調でとがめられたことを覚えている。

 先生方のことを話すならやはり校長先生のことを外すわけにはいかない。入学した時の先生は金子先生で、しっとりとした風貌が哲学者のような紳士だったし、話すことも味があって校長のように普段生徒と接触しない人としては例外的な人気を保っていた。一年の終わりには退任されたのだが、その時のお話が印象的で、評論家の友達がいる、朝の四時かそこらに起きて本を読み始める。そのことは人によって仕事の時間は違うのだから驚かなかったが、読んだ後四時間ほど考えるという話に感心し、人の作品にコメントするためにはこれくらいしなくてはならないんだと思ったとおっしゃった。この人に比べて後任の中村先生は風采も普通の方だったし、何より紛争と重なってしまったという不運に襲われた人だったが(紛争についてはまた項を改めたい)世界史の桜井先生の元同僚で、先生は校長室に入るなり「中村さん」と呼びかけたら居合わせた教頭(二人いて確定できないが清田先生ではないかと思う)が「校長先生にお話があるんですね。」とやんわりたしなめたという。この教頭先生は一度三年生の時誰かの代わりにやって来て世界史を教え、中国の古代王朝が秦、前漢、新、後漢と移ったのをとらえて「しんからかん、かんからしん、しんからかんと鳴り渡る」という説明をした。後になって清水君がこういう全体の流れのような解説をしてくれた人は今までなかった、さすがに教頭だと思ったと話していて、なるほどなと思ったのを覚えている。

2017/12/14
記事作成者 高校23期 藤田 衆
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

思い出の記1(先生方

先生イラスト

 私は記憶力は良い方だと思うのだが、最近のこととなると「毎日が新しい」と自嘲したくなるほど忘れている。むしろ高校時代の思い出の方が鮮明なくらいだと思うけれども、これもいつ霧のごとく薄らいでいくかもしれないと思うので、覚えているうちに少しでも残しておきたい気がしてきた。昭和43年に蒔田中学から緑高に進学したのは5、6人に過ぎなかったが私はもともと大鳥小学校、1年生の時だけ大鳥中学校で過ごしたこともあって緑高は地元の感覚があり、入学した時も顔見知りが多かった。最初の担任は生物の故高津先生だった。ずいぶんと赤い顔だと思ったことを覚えている。今思えばお酒焼けだったのかもしれない。さんづけはしないよと言って名簿を読み上げ始めたのだが私のところに来て「衆」という名前が読めなくて「藤田…君」と言ってしまってから何と読むのかと(単にシュウなのだが)尋ねられた。常に穏やかに話される人格者だったが、一度だけ、実験をグループでやっていた時少し騒いでいたグループがあったのに急に雷を落としたことがあった。ご自分でも地声は大きいのだが、怒ると気分がよくないし、酒もまずくなるから怒らせないでくれと事後に頼んでいた何となく恥ずかしそうな姿が目に浮かぶ。この日には生徒会主催の新入生歓迎会で何人かの先生の紹介があった。最初に紹介されたのは名前を忘れてしまって申し訳ないが数学の先生で、実はYMCAの数学教室でお会いしたことがあり、その時円周率の30桁までの覚え方を教えてくれたのだが、まさに円周率の覚え方を教えてくれる先生として紹介された。マシュケナダがサックスとトロンボーンで演奏された。その次にスポットライトに照らされて「その先生は去年の4月にやってきました。」(これは当時はやっていた『ケメ子の歌』の出だし「それは去年の5月のことでした」のもじりだったと思う。)という芝居がかった演出にふさわしい女優のようにきれいな女性が現れたのだが、それが古典の和田先生だった。声もきれいで、話し方も凛としてカッコ良い方だった。この美女にふさわしい曲ということでウエストサイドのマリアが演奏された。最後に紹介されたのはすのこを作ったりされるという変わった紹介をされたが名前も変わっている大学先生で、この時は似顔だけだった記憶があるのだが、世界史を少し伏し目になりながらひたすらすごい記憶力を駆使して宙でしゃべっていたのが印象的である。同じ世界史の桜井先生が、今日大学先生は愛犬が病気なので休まれたが、あの人は自分が病気なら出てきて授業をやるだろうと言われたこともあった。この日の紹介は以上だった。

 1年生と3年生で担任だった高津先生についてはまた別に話す機会もあろう。2年生の担任は体育の加藤先生だった。この方ももうだいぶ前になくなってしまわれたのが、それほどの御歳でなかったと思うので惜しまれてならない。まじめ一方の方で、体育の時間よりも保健の授業の方が印象があって、紛争のころクラスの委員が二人ほど、クラス討論のために保健の時間をもらえませんかと持ちかけたところが、いやだよ、これは僕の時間だし、英語や数学と違って週に1時間しかないのだから一こまでもなくなると大変なのだとお答えになられたのがよく人柄を表している。その先生でも一つだけ肩の力を抜いたエピソードがあって、遠足の時マイクが回ってきて、ローンレンジャーというマスクマンの西部劇があったのを真似し、今のは小学校低学年用だからこれからが高校生用といわれて、映画『シェーン』の主題歌を歌われたことがあった。身長は高かったがなにがご専門なのかはいまだによくわからない。当時他の体育の先生はますも先生という方がいて大きな体格で野球ではないかと思っていたがそれも確かではない。もう一人小さな先生がいたが、この人には柔道を習ったのが印象的で柔道の先生ではないかと思っていたが、それも定かではない。体育の授業と言えば一つ、50メートル走の測りあいをするというのがあってこのとき私の担当は女の子だったが、同走の子が途中でやめてしまったのに気がそがれたのとかわいい女の子だったので顔ばかり見ていたということがあってストップウォッチを押しそこね、いい加減に6秒8とか何とか言ったところ、監督していたますも先生が、そんなタイムで走れるのは全学でほんの数人しかいないぞ、嘘だろうと見抜かれてしまったことを覚えている。この体力測定では肺活量の検査で女の子が測定員で、私がやったらグーッと持ちあがってすごい値だったので喜んだら、ああねじを締め忘れていたと言われ、測り直したところ、今までで最低と言われてみじめな思いをしたこともある。

 数学の先生はビッグマウスで愛想よくしゃべる石井先生と、対照的にひたすらまじめにきれいな字を黒板に連ねていく瀬下先生がいた。数学は中学までは得意だったのだが、高校に入った途端できなくなって、やはり自分は理系ではないと思い知らされるきっかけになった。ましてこれを使う物理は苦手であったが、当時文系でも国立を受けようとするとこれが必要だったので文系の子を集めて補習をしてくれた先生がいた。残念ながらこの先生も御顔は思い浮かぶのに名前が出てこない。化学の先生は対照的にあぶさんのように、酒を飲んだまま授業をやってでもいるんじゃないかと思わせるような豪快な話し方をされるこれも名前を忘れてしまった先生で、学生が間違えると「あ~あ、これでも高校2年生」というような慨嘆をクラスを回ってそこらじゅうで発する(つまり皆間違えていたわけだ)。地学の八木先生はひょうひょうとして面白いことをサラっっという方だった。「日がサンサンと輝き」という駄洒落が得意だったのをよく覚えている。

 国語ではまず鶴見先生というかなり年取った先生がいた。生徒が間違えてクラスの者が笑うと怒ったが自分が間違えたとき「こういうときは笑っていいんです」と言われたので皆その言葉がおかしくて笑った。美人の和田先生の授業はひたすら待ち遠しかった。そういう経験は小学校から大学まで他にはなかったと思う。それから指田先生と言う人がいてとぼけた話し方が人気だった。兄貴の子供をいじめて「さっし兄ちゃんなんかだ~いっきらい!」と言われたというような話を授業中にされていた。もう一人かなり年配で頭がつるつるの先生がいたと思うのだがこれも名前を忘れてしまった。この先生が、日本史の時枝先生と言うのはあの有名な時枝文法を書いた人の弟さんだよと教えてくれた。時枝先生は確かにそういう大学教授的な風格を持った人だったが、本当のところ高校生には時枝文法などと言われても分かりはしなかったのだ。

 英語は最初に習った人がかなり変わった中国びいきの先生で、中国の軍隊が一番民主的ないい軍隊だなどと話すのが常だったが、駄洒落をサラっと言う人でもあって、occur,occupyと単語が並んでいると「おっかあのおきゅぱいだなんて言ってはいけないよ。」などとにこりともせずに言う。anniversaryは「兄バーサリー(バッサリ切るの意)」と言うのもよく覚えている。高木先生と言う人もいて何故か生徒にすっかりなめられていて、ある日など、先生休講にしましょうなどと言われて反対することができず、私は友達と下校してしまったのだが、ますも先生に見つかって、誰が休講なのかと聞くので高木先生だと言ったら、高木先生はいるぞ、と言われ、ごまかして帰ってしまったが、先生はひょっとして後で大変だったのではないかと想像され、冷や汗ものだった。その後で授業を受けた新任の先生は歓迎会の酒の席で高木先生に呼ばれ4の字固めをかけられて足が痛いと授業中に座り込んだことがある。高木先生は生徒に交じって1500メートルをかけたくらいだから体力には自信のある人だったのだろう。何故か気が弱かったのだ。

 音楽の田頭先生はまず自分の名前を種にして、この名前はなかなかきちんと読んでもらえなくてね、高校生の時国語の先生が「たがしら」と読み、訂正しても3度までそう呼ばれたので、国語の先生がこんな読み方をするとは、と嫌になってしまった、と話されていた。さすがに生徒たちの難しい名前も調べたのかきちんとお読みになっていた。(亡くなられたと聞いたけれど生出と書いておいずると読ませるピアノのうまい女の子がいた。この名前も問題なく読めたのだ。)指揮が専門だと言うだけあって指揮ぶりは堂に入っていた。

 このほかにも忘れている先生がいらっしゃるかもしれないが、それはおいおいまた話すとして、最後に姉の時からお世話になって印象深い先生の話をしておこう。島田慈周という英語の先生で当時すでに髪が極めて薄くなっていた。「僕がぐだぐだ言うよりパット分かる本があるんですよね。」と言いながら自習英文典と言う参考書を進めるので有名だった。この人も駄洒落をよく言う人で、多摩川の上を通ると汚水が汚くたまっているからたまリヴァーだ、などといいつつ、皆が窓から飛び出したくなるような駄洒落を言うんだと口癖にしていた。それである時クラスの何人かが示し合わせてhousesを訳する時いえいえつまりあのレナウンの宣伝(イェイェという言葉に乗る曲のコマーシャル)と言いかけたところで5,6人が一斉に飛び出してしまった。先生はさすがに驚きながらも笑顔で、「悪い奴ほど卒業後でも覚えているんですよね。」などと残りの生徒に語り、それからは「机の下に潜り込みたくなるようなしゃれ」にネタを変えられた。

 思い出は話せば話すほどまた芋づるのようにつながって出てくるものだ。あまり長くなるようなので、今日はここらでやめよう。

2017/12/7
記事作成者 高校23期 藤田 衆
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

<緑高の現在の様子>2【緑高生気質編

 高校23期の片倉です。2004年4月から定年を迎えた2013年3月まで緑高に勤務していました。もちろんヒラ教諭としてです。そのときの印象を元に、前回の予告通り、緑高生気質について書いてみたいと思います。

 まず気質とはちょっと違いますが、大きく変わったのは男女比です。我々の頃は大体男子6割、女子4割くらいだったと思いますが、今はその逆で女子6割、男子4割となっています。私が緑に着任した頃はまだ男子の方が少し多かったのですが、その後だんだん女子が増えてこうなったわけです。原因はある程度わかりますが、今回はふれません。

 あと我々世代と全く変わったのは、生徒が優しい、礼儀正しいということです。もっともこれは緑に限ったことではなく、どこの高校でもそうなってきているようです。我々の頃は、なかなか先生に対して手厳しい人が多かったですよね。また困るくらい従順です。草食系男子とかが話題になってますが、そんな世相になっているんでしょうね。

 これも我々の時代と大きく異なるのは、社会的関心が低いことです。まあこれも緑に限ったことでなく、現代の学生全般に言えることでしょう。逆に我々の頃が関心が高すぎたのかもしれません。図書室に「ゲバラ日記」が何冊も並んでましたが、そのくらい借りる生徒がいたからあんなに買ったのでしょうね。今あれを並べても誰も借りる生徒はいないでしょう。

 次にちょっと別の面から見てみたいと思います。現在、高校教員は同一高校への勤務は10年を限度とされています。また転勤は希望によります(特定校への希望はもちろんできません、地域の希望はできます)。すると学校によっては3〜5年くらいで転勤希望を出す人が多いところもあります(有名校にもあります)。そこへいくと緑の教員は長くいたがる傾向があります。要するに居心地がいいからです。その一つの例証をしましょう。

 私が緑に来てからですが、なんと「生徒による授業評価」というものが始まりました。各授業に対して、生徒たちがいくつかの項目に5段階評価を与えるものです。中身は全校共通ですが、そのやり方は各学校によって違います。まず無記名か記名か、記名なら誰か教員にわかってしまうのですから、あまりいい加減なこととかひどい批判とかは書けなくなるわけで、多くの学校は記名方式のようですが、緑はなんと無記名です。そして結果発表の形式も学校ごとに(というか校長ごとに)異なりますが、緑の場合は各教員が自分の授業で評価をとり、自分で集計して、それを各教科主任がとりまとめて教科の合計として発表します(今もそうかは確認してません)。よって各教員は教科ごとの結果を知ることができます。それを見ると評価結果はなかなかいいのです。生徒たち、優しいんですね。数学なんて嫌いな科目の最たるもののはずですが、私以外の先生方はとても優しい方が多く、数学科でさえなかなかいい結果なのです。この評価については、他校の教員とよく雑談で盛り上がるのですが、私が聞いた中で印象深い話を紹介しましょう。記名評価の学校での話、ふだんよく質問に来る真面目で熱心な生徒がいて、自分によくなついてくれている、さぞや自分の評価はよく書かれてあるだろうと思いきや、とんでもなくボロクソな評価が書かれていて、それを読んだときは「心が折れた」経験をしたと語ってくれた人がいます。そのショックは同業者としてとてもよくわかります。いわゆる進学実績の良い高校によくある話ですので、紹介しました。

 まあ緑は生徒たちも満足しているし、教員たちも満足して働いている、と言っていいでしょう。退職後も管弦楽部の定期演奏会に出演する関係で、まだコネクションを持っていますので、まあこう言ってよろしいかと思います。今後とも続いてほしいですね。

 そういう生徒たちの満足については、実はからくりがあります。そういう学校だと知って受験する生徒たちだからです。今はどの学校も中学生に対して「学校説明会」なるものを行って、自校の宣伝にあい努めてますが、たとえば生徒の話によると、某高校の説明会では「東大一橋東工大」を目指す人に来てほしい、と言っているそうです。これを聞いてそんなガリ勉の学校じゃいやだ、ということで緑にした、という「証言」を複数聞いています。そこへいくと、緑はのんびりやっていて自分に合ってそうだ、ということを事前に十分認識して受験するわけです。またインターネットの普及により、我々の頃にはなかった資料があります。「神奈川県高校口コミランキング」なるものがあるのをご存知の方が多いと思います。実は私はこういうことに疎く、ほんの数年前に知ったのですが、驚いたことに緑高が1位なのです。今回これを書くに当たって久しぶりに見てみましたが、やはり1位のままでした。ネット上の情報なので当てにならないのは当然ですが、ただ実際に詳しく読んでみると内部にいる者としてまあ実感できることが書いてあります。妥当なところだと思います。こういうのを見てそれで憧れて進学してきて、まさにその通りなのですから、そりゃ満足度も高いでしょう。一方、若干内部事情を知っている某他校の口コミを見ると、まさに聞いた内容のことが厳しく書かれてあります。従ってなかなか信頼性は高いのでは、と思える情報と言えるのではないか、と思えます。

 長くなりました。ここでは書けない面白いことが沢山あるのですが、次回はまた別の切り口から書こうと思っています。

2017/12/7
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

<緑高の現在の様子>1【校舎編】

 高校23期の片倉と申します。宮本君から牧陵会のHPの手伝いをするようになった、との連絡を受けてさっそく開いてみたところ、懐かしい名前が目に入り、私も投稿しようと思い立った次第です。

 私は大学卒業後、すぐ県立高校の数学の教員になりましたが、運良く定年前の9年間を緑高で過ごすことができました。4年前に退職して早大学院に非常勤講師として3年ほど勤めて、とても楽しくやっていたのですが、母の介護の関係でやめました。その母も今年5月に亡くなって、現在毎日が日曜日の生活をしております。

 同期で教員をやっている人も多いと思うのですが、緑高で教える機会を得た人が他におられないかもしれませんし、定年後も管弦楽部の諸君と一緒に練習する関係で年間数回緑高を訪れてますので、最新の情報をお伝えできるかと思い、何回かに分けて緑高の現在の様子について書いてみたいと思います。今回は校舎編です。

 我々が通学していた頃は職員室があった本館、主に教室があった北館、木造だった東館と建て替えられた西館があったと思います。東館はあのあとすぐ壊され、その後、体育館の建て替えや校舎の窓枠をアルミにするなどの工事があったようですが、基本的にはその校舎構成で40年以上過ぎたのです。その後、耐震調査などで建て替えを勧告され、それもだいぶ後回しにされて、4年ほど前にようやく完成しました。変わったのは以下の点です。

 ◎校舎とグランドの間にあった広い植え込みが、教室主体の南館として新築
 ◎本館と北館はこわす予算がないため、立ち入り禁止としてそのまま
 ◎西館は耐震補強をし、内部を大幅にリニューアルして事務室、校長室、職員室、保健室などを移転

 このように大幅に変わりました。あの植え込みは我々の頃はあそこで話をしたり、弁当食べたり、歌ったりしたものですが、その後ほとんど使われなくなり、私が緑に赴任した14年前は、誰も立ち入らない荒れた林になっていました。従ってそこに校舎を建てるのに、特に反対はなかったように思います。

 ここには21クラスすべての教室と理科教室、そして図書室が入っていますが、特筆すべきは、1階の図書室の右手前に牧陵会の部屋ができたことで、ここに行くと昔からの資料などが並べられてあり、誰でも自由に見ることができます。なお昔の図書室は今は音楽室になっています。

 周囲の環境ですが、かなり以前に米軍居留地が返還され、本牧地区はマンションに、間門地区は戸建てが立ち並んでいることはご存知かと思います。そして山頂部は本牧山頂公園として整備されました。それ以外はあまり大きな変化はないものの、やはりマンションがあちこちにできていて、ちょっと様変わりした部分もあります。

 県内あちこちの高校に勤務してきてつくづく思うのは、緑高の環境は素晴らしいということです。屋上に上がるとだいぶ綺麗になった港、高層ビルのあるみなとみらい方面、そして富士山が眺められます。周辺の落ち着いた環境は昔のまま、そして少し足を伸ばせば、横浜の歴史を感じさせるさまざまな建物や公園に行くことができる素敵な場所に建っているのです。皆さんも久しぶりに母校を訪れてついでに近辺を散策してください。

 今回はこのくらいで。次回は緑高生気質について書いてみたいと思ってます。

 高校15期に「✿(高23期)の「校舎編」記事を拝見して」が掲載されました2017/12/23

2017/12/6
記事作成者 高校23期 片倉 正一
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

牧稜会

 昭和46年卒業生の藤田です。今は名古屋の名城大学と言うところに勤めています。前に牧稜会に載せた記事に反応して田中幸二さんが便りをくれ、一度お会いしました。彼は今はヨーロッパなどと取引していて日本にいないことも多いようです。昨年(2016年)の夏に母校のホームカミングデーに初めて行ってみました。山手駅からの道のりも思っていたよりグネグネしていましたし、グラウンドがこんなに狭かったのかと少し驚かされました。他の部分にはあまり覚えがなかったのですが体育館講堂の、ステージが前面にある古ぼけたたたずまいは懐かしい前のままのものでした。確かそれももう改築されたようですが。
 そこでチアリーディング部の演技を見せてもらって、クラブ活動も変わったのだなと思いました。卒業して間もない人たちのオーケストラがカーペンターズメドレーを、古い人たちにはいいだろうと演奏してくれたのがよかったのですが、私にとってはそんなに昔ではないカーペンターズが懐メロ扱いされているのは少しショックでした。何周年かの記念号と言うのが図書館に並べてあったので、該当箇所を購入しました。緑高の歴史年表には数行だけ紛争当時のことが書かれていました。
 その後懇親会にも行ったのですが、同期生がだれもいないのは寂しい感じでこの様子を聞いた田中さんもそれなら行かないと言っていました。ただ、会長が自分が一年生の時の応援団長の向井さんだったのは面影も認められて懐かしい気はしました。会員のバンドによる余興があったのですがプロのような演奏で、リードヴォーカルの女性はアンジェラ・アキのヴォイストレーナーをやっているとのことでした。そういえば私たちの世代でも斎藤さんと言う人がいて、アイドル系の事務所で働いていたと覚えています。私や田中さんのように遠くに散らばっている人が多いのかもしれませんが、また集まれる機会があればいいとは思いました。

2017/12/5
記事作成者 高校23期 藤田 衆
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

12/2 HP講習会を受講し更新できるようになりました。

 こんにちは
 高校23期の宮本太郎と申します。

 12/2にHP講習会を受講して23期のページの更新ができるようになりました。
 ホームページ作成は初めてですので宜しくお願いします。

 23期は下記投稿しかありません。
 是非、皆様から最近の話題の投稿をお待ちしています。

 また、ホームページ更新をお手伝い可能な方、ご連絡いただけると助かります。

2017/12/4
掲載責任者 高校23期 宮本太郎
連絡先:tmiyamot22(アットマーク)gmail.com

2017.12(H29.12)以前のページ

名勝天龍峡を中心とした観光まちづくり

画像の説明
天龍峡

高校23期の半田和文と申します。
山下会長、橘川先輩はじめ、牧稜会諸先輩には大変お世話になりました。
私は、山陰・鳥取での観光協会の仕事を終え、この4月から長野県飯田市に入りました。
飯田市からお誘いを受け、飯田市の地域活性化、名勝天龍峡を中心とした観光まちづくりに関わっていくこととなりました。
横浜市同様、いち早く環境モデル都市の指定を受け、環境先進都市として街づくりを進めている南信州の小都市(人口約11万人)です。
現在、東日本大震災、原発事故によって被災された南相馬市の皆さんを受け入れ(約100名)、市職員、地域住民一体となって支援活動に当たっています。
観光地である名勝天龍峡地区においても、市民利用施設を開放、家族単位で個室を確保して40名弱の皆さんを受け入れています。食事の支度やお花畑の草取り作業など、南相馬市の皆さんと地区の皆さんが共同で取り組んでいます。ようやく開き始めた桜の下で交流会も行われ、手打ちそばや五平もち、ちらしずしなど、地区住民手作りの料理で、ほっとするひと時を過ぎしていただきました。
今後、こうした情報を始め、飯田市並びに南信州の観光情報地域のまちづくり情報などをお便りさせえ戴きたいと思いますので、どうぞよろしくお願いいたします。

平成23年4月15日
記事作成者 高校23期 半田和文
(飯田市産業経済部調査役・天龍峡観光まちづくりコーディネーター)
掲載責任者 高校23期 宮本太郎

藤田 衆

 昭和46年の卒業生で藤田衆と言います。
 これが何期かも実は良く知らないのですが、他の年代の方と比較すると、多分、高23期なのではないかと思います。
 ずっとごぶさたしていたのですが、そろそろ同期の人がどうなっているか知りたい気がして来ました。
 担任だった高津先生も加藤先生もお亡くなりになったと思いますし、自分も名古屋に住んで25年になり、同期の人とは全く連絡がなくなりました。誰かこれを見たら連絡してみて下さい。

メールsfujita(アットマーク)ccmfs.meijo-u.ac.jpまで。
記事作成者 高校23期 藤田 衆
掲載責任者 高校23期 宮本太郎