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高校12期会

★牧陵会事務局からのお願い

 住所が判明している方には、「牧陵新聞」等の牧陵会活動報告や、同期の幹事の方から同期会開催等のご案内状をお送りします。

 牧陵会では、牧陵会活動への温かいご理解と、活動への積極的な参加をいただくため、宛先不明となっている会員の方々の現住所を確認する作業を進めております。
 このリストをご覧になられたご本人から、あるいは、同期生の現住所をご存知の方は、移転先住所等の下記変更事項を牧陵会事務局までご連絡いただければ幸いです。

《ご連絡いただきたい事項》
 【卒業期】・【氏名(旧姓も)】・【住所】・【電話番号】・【メールアドレス】等
 ※ 卒業期は、「緑高同期会」のページの早見表をご参照ください。

 個人情報を一般に公開することはありませんが、同期会開催のために要請があれば、同期会幹事に提供する場合があります。
 同窓会名簿は、インターネット回線に接続していないパソコンで厳重に管理しており、冊子としての名簿は、平成10(1998)年版以降、発行しておりません。

 宛先不明会員の一覧表は、個人情報保護のため、お名前はカッコ内に1字のみ表記させていただきました。

 牧陵会事務局
  〒231-0027 横浜市中区扇町3-8-6
  ℡045-664-9020
  e-mail  bokuryoukai@gmail.com

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目次


 野菜畑とダーウィン(3)

野菜畑の小さな生き物の大きな働き
野菜づくりの基本は土壌づくりにあると云われている。そのためには畑をよく耕して、有機肥料などの堆肥を入れて土質をよくすることが欠かせない。
土壌微生物(バクテリア、糸状菌、放線菌、藻類など)は昆虫など小動物死骸及び落葉、枯れ草などの植物を分解して有機質豊かな土壌を作る働きをしている。
畑の野菜は無数の土壌微生物が作ってくれた肥沃な土壌から水分と窒素・リン酸・カリなどの有機的な栄養成分を吸収して、地上部で太陽の光を浴びることにより光合成を行い成長することができる。
地中と同じように地上でも小さな生き物が大きな働きをしてくれている。
どんな野菜も必ず花を咲かせるが、花が実をつけるためには雄蘂の花粉から雌蘂への受粉が欠かせない。受粉という交配行為には昆虫など生き物の働きや風の力を借りる必要がある。この媒介の重要な役割を果たしているのがチョウやハチなどであり、花の蜜を求めて飛びまわり、蜜を吸う時に受粉の手助けをしている。
また、テントウムシは小さい体ではるが、アブラムシ、ハダニ、カイガラムシなど野菜を食い荒らす害虫を捕食してくれている。
昔からミミズが沢山いる畑は健康な証であるとよく云われている。
ミミズは細長い円筒形で多数の環節から成る環形動物であり、畑の土の中にもぐっていて四六時中土を食べては吐き出して、土を耕してくれている。
畑仕事をしているとあちこちの土の中から太ったミミズが出てくる。その這いずり回る姿を見ると何となく嬉しくなる。

チャールズ・ダーウィン (002)
チャールズ・ダーウィン

このミミズという小さな生き物について研究していたのがチャールズ・ダーウィンだということを最近知った。ダーウィンはケンブリッジ大学を卒業後、観測船ビーグル号に乗って5年間にわたり中南米、ガラパゴス諸島、オーストラリア、アフリカなどを巡り、さまざまな動植物の生態について調査研究を行った。
この時の調査を基に、生物の自然選択説及び進化論という独創的な学説を考え出した。
生物の遺伝的な形質が世代を経る中で変化して行き、環境変化に適応できる生物種が生き残るという学説であり、一つの種から別の種へと変化して生物が多様化する過程を科学的に証明した。
こうした考察をまとめたものが著作「種の起源 On the Origin
of Species」 (1859年)である。
ダーウィンが提起した進化論は、当時の社会や宗教界に大きな反響を巻き起こし、神の手による天地創造説を覆すことになった。その学説が現代に至るまで生物学の根幹をなし、生物多様性の科学的論拠となっている。
地球上の多様な機能を持った無数の生物が、その連綿と続く命の営みによって人間が生きる糧である穀物、野菜、果物、家畜の肉や乳産品、魚貝類など海産物を生み出してくれている。多様な生物のお蔭で人間は生存できているのだと、ダーウィンは教えてくれている。
この偉大な博物学者であり生物学者が晩年には小さな生き物であるミミズの研究に没頭していたとのことである。
ダーウィンは自宅の広い庭園に野菜畑や花畑をつくり、ミミズを畑で実際に飼育し、さまざまな実験を繰り返しその生態を解明した。ミミズのたゆみない働きによって肥沃な土壌が形成され、植物が成育するためにミミズは欠かすことが出来ない価値ある生き物であると結論づけている。日頃人の目に触れることがない小さな生き物の観察に情熱を傾けたダーウィンの最後の著作が「ミミズと土」であった。これまで縁遠かったダーウィンに親しみを覚えるようになった。

野菜畑が訴える環境問題
野菜畑の中を動き回るチョウ、ハチ、ミミズ、小鳥などの姿を見ていると、レイチエル・カーソンのことを思い出す。

レイチェル・カーソン
レイチェル・カーソン

20世紀を代表するアメリカの女性生物学者で、その著書「沈黙の春 Silent Spring」(1962年)は特に有名である。
「沈黙の春」はコペルニクス、ニュートン、ダーウィンなど歴史を変えた著作27冊の中の一冊であると歴史学者が述べるほど、現代社会に影響を与えた
書物である。
20世紀中頃のアメリカの農場では農作物の収穫を上げるために大量の農薬と化学薬品が使用され、空中散布も行われていた。緑豊かな田園地帯にはいつの間にか蝶も蜂も姿を消し小鳥たちの鳴き声も聞こえなくなり、やがて多くの住民が病気になるという深刻な事態が生じていた。
カーソンは詳細な科学データに基づき農薬及び化学薬品の使用が、農地、牧草地、森林、河川、海洋などに深刻な汚染を引き起こし、人間の疾病ばかりでなく動植物の生態系に重大な影響を及ぼしていることを実証し問題を提起した。
「沈黙の春」の告発が嚆矢となり、環境破壊による健康被害や生物多様性の喪失が大きな社会問題として認識されるようになった。
この問題をいち早く理解した当時の大統領ジョン・F・ケネディは直ちに環境保護庁を設置して本格的に環境問題に取り組むことを始めた。

ジョン・F・ケネディ (002)
ジョン・F・ケネディ

やがてカーソンの問題提起が世界の諸国を巻き込んだ国連人間環境会議を呼び起こし、後年国連環境開発会議・地球サミットとなり、現在では気候変動枠組条約、生物多様性条約という世界規模の温暖化対策と環境保護の運動に引き継がれている。
残念ながらカーソンの警告にも関わらず僅か半世紀ほど経った現在、地球全体の環境は過度な二酸化炭素の排出や急激な自然破壊などによって加速度的に大きく狂い出している。地球温暖化による気温と海水温の上昇に伴うスーパー台風、巨大竜巻、集中豪雨、洪水などの異常気象の多発、二酸化炭素・二酸化硫黄・窒素酸化物による大気汚染、プラスチックごみによる海洋汚染、熱波による森林火災の頻発、干ばつ、砂漠化の広がりによる水資源の枯渇と農耕地の減少、氷河、氷土の溶解による海水面の上昇等々、危機的な深刻な状況が世界を覆っている。
                                 福島原発事故

福島原発事故

日本では2011年3月の福島原子力発電所の爆発事故によって、史上最大の深刻で悲惨な環境破壊が現実のものとなってしまった。
原子炉のメルトダウンにより放出されたセシュウム、ウラン、プルトニュウムなど放射線物質は自然豊かな田畑、森林、河川、海洋を瞬く間に汚染してしまった。遠い祖先から何世代にもわたり耕作してきた人々は田畑や牧畜の土地を失い、漁業に精励してきた人々は漁場を失っている。汚染された土地には人が住むことができないために、今でも数万人という多くの人々が愛する故郷を離れて避難生活を続けている。これほど残酷な自然破壊と生活破壊は無く、この地域の人々にとってどんなに辛く悲しいことか筆舌に尽くせないものがある。
このような悲惨な原発事故は福島だけではなく、地震と津波の多発する日本
列島のどこの地域でも起こる可能性があることが危惧されている。

地球誕生以来の何億年もかけて出来ている自然循環の仕組みが人間の所業によって崩壊し、800万種と推測されている生物の生態系が壊され、100万種もの生物が絶滅する危険に晒されている。世界人口75億人の生活を支え、さまざまな欲望を満たすために生物の一種に過ぎない人類が地球環境を破壊し続けることはもはや許容できない状況にある。
                              原発事故の除染廃棄物

原発事故の除染廃棄物

世界中の国々が国家、政治、経済、産業などの利害を超えて環境保全に取り組み、早急に対策を実行することが求められている。
原子力発電及び石化燃料による火力発電から、太陽光、太陽熱、風力、地熱などの再生可能エネルギーへの転換、ガソリン自動車から電気自動車へのシフト、大規模な森林伐採を中止し計画的な植樹による森林再生などが急がれる。
私たち一人ひとりも環境保全のために自分たちのライフスタイルを見直し、生活全般の省エネ化、日常品のリサイクル・リユース、プラスチックや食品ロスの削減などを実践することが必要となっている。

私が耕作する小さな畑には世界のさまざまな地域からやって来た野菜たちが年々歳々命をつなぎ、四季の移り変わりに応じてそれぞれ花を咲かせ、実をつけている。地上の昆虫、野鳥、小動物、地中のミミズや土壌微生物など無数の生き物が野菜の生育にとって大事な働きをしている。そして汚染のない土壌と水と大気そして太陽という自然の恵みがいかに大切であるかを教えてくれている。私たち人間はこうした多種多様な生物と共生していること、そして人智を超えた自然の循環の中で生きているということを、野菜畑から学びながら農作業をしています。
                                 【了】

掲載日:平成31年7月20日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ





 野菜畑とダーウィン(2)

野菜畑の花々は国際色豊かで個性的
植物は全て種子から芽が出て花を咲かせ実をつける、その実から新しい種子が
地上にこぼれ子孫を残すという循環を年々歳々続けている。
野菜は家畜と同じように古来より人間が都合のよいように改良して、日常食として欠かすことが出来ない主要な食料としてきた。もともと山野草であった
ものを長い年月をかけて食べ物として適したものを選り分け、何世代にもわたる品種改良を行い現在の野菜となっている。
畑で農作業をしているとどんな野菜も必ず花をつけることが分かる。
トマト、キュウリ、ナスなど果采類は花が咲いた後に実が成る。ジャガイモやサツマイモなどの根菜類は地上では花が咲き地中では茎や根が肥大化して
食べ物となる。ホウレンソウやコマツナのような葉采類は花が咲く前の葉を
収穫して食べる。
野菜畑の花は園芸用につくられた花と違い、それぞれが個性的で野趣に富んでいる。東アジア、中央アジア、中東、地中海沿岸、中南米、北米、アフリカ
など原産地が多岐にわたるので、人間と同じように姿、形、色合いもさまざまで国際色が豊かである。

ジャガイモの花

☆ ジャガイモの花はよほど関心がないと見ることがないが、
よく見ると綺麗な白、ピンク、薄紫の花が咲く。
ジャガイモのルーツはトマトと同じように南米アンデス高地であり、インカ
文明を支えた作物であったが、スペイン人が16世紀に大西洋を渡り持ち帰った。
ジャガイモは熱帯から寒冷地まで栽培可能地域が広いので、ヨーロッパでの穀物の不作と戦乱による食糧不足を救うために栽培地が急速に拡大し、飢饉にも役に立ったと伝えられている。当時のヨーロッパ人とってジャガイモは重要な作物であったためか、

マリー・アントワネット
マリー・アントワネット

フランス革命期の王妃マリー・アントワネットが舞踏会の折にジャガイモの花を髪飾りとして付けていたことが逸話として残っている。ベルサイユのバラではなくジャガイモの花が髪飾りに選ばれたとはいかにも面白いエスプリの効いた話である。
日本ではジャガイモの品種にはどういう訳かダンシャクやメークインなど洒落た名前がついている。ダンシャクは、明治期に川田龍吉男爵がイギリスから北海道に導入した品種に由来している。メークインは5月に美しい紫色の花が咲くことから
五月の女王と名づけられたようである。

エンドウの花

☆エンドウは蔓を伸ばして小さな蝶の形をした白、紅、紫色の花をつける。
類縁のスイートピーはエンドウを観賞用に改良した園芸種である。
エンドウマメは古代エジプトにもあった歴史の古い野菜であるが、現在の日本ではキヌサヤ、スナップエンドウ、グリンピースなどが好まれている。
畑に咲くエンドウの小さな花を見ていると、高校の生物の授業で学んだ
メンデルの法則を思い出す。

・メンデル
グレゴール・メンデル

19世紀中頃オーストリアの修道院の司祭であり植物学者であったグレゴール・メンデルはエンドウマメの交配実験を重ね、遺伝現象の法則性と遺伝物質の存在を発見した。優性の法則、分離の法則、独立の法則という三つの法則によって親・子・孫へと遺伝形質が代々伝達される仕組みを解明した。
現代の遺伝子、DNA、染色体、遺伝子工学、遺伝子治療からIPS細胞の
研究に至るまで遺伝学と応用技術の発展は、
メンデルのエンドウに関する地道な研究から始まったと言うことができる。
あらためて、畑の中で蔓の先に咲く可愛らしいエンドウの花を感心しながら
眺めている。

トウモロコシの花

☆ トウモロコシはメキシコからアンデス高原に至る地域が栽培のルーツと
され、大航時代にヨーロッパに広がり、現在ではムギ、コメと並ぶ三大穀物として世界中で栽培されている。
畑で育つトウモロコシを見ていると花はいったいどこにあるのだろうかと不思議に思う。調べてみると雌雄同株で茎の先端にススキの穂のように伸びているのが雄花、茎の腋の包葉の先にヒゲように垂れているのが雌花の雌シベであると分った。トウモロコシは花の形状が特殊なので昆虫の手助けがなく、風が花粉を運び受粉する仕掛けになっている。雌花のヒゲの一本一本が子実につながっていて、受粉によって皮の中で一粒ずつのコーンに形成される。ヒゲの数と粒の数は同じだけ作られることになる。沢山のトウモロコシの花がススキの穂のように風に揺られている状景は夏の風物詩とも云えるが、花として見ると特異な野菜である。

メイフラワー号2
メイフラワー号

1620年英国ピューリタンの人々が自由を求めメイフラワー号で新大陸を
目指しアメリカに渡る。厳冬の厳しい環境の中で食料がないために飢えに苦しんでいた時、ネイティブアメリカンからトウモロコシの種を貰い、栽培方法を教えてもらった。そのお蔭で食糧を安定して収穫することができるようになり、入植活動を継続し開拓地を広げることができた。このことがサンクスギビングデー(感謝祭)の起源とされ、合衆国建国の最初の基が造られたとも言われて
いる。トウモロコシはまさに世界史に刻まれるような作物でもある。

オクラの花

☆オクラの花はクリーム色のちりめんのような花びらと赤い花芯の取り合せ
が美しく、背丈も2mほどにもなるので夏の畑に彩りを添える。
北東アフリカの熱帯地域が原産で、はるばると長旅を重ねて幕末にアメリカ
から渡来した珍しい野菜である。アオイ科のハイビスカス、タチアオイ、
ムクゲなどと同類で、南国風の野趣が感じられる。
オクラという名前もアフリカの現地語であり、アフリカ系の野菜が日本の
多雨多湿な風土に馴染んで頑張っていることに感心する。
オクラはムチンという物質によってヌメリがあり、食物繊維、ビタミン、
ミネラルも豊富で夏バテに効果がある優れものである。

ナスの花

☆ナスの花は淡い紫色で美しく素朴な野趣があり、実も艶やかな紫紺色で
綺麗な姿をしている。インド原産でシルクロードを運ばれ、奈良時代に中国から渡来した。千三百年以上前から日本人に好まれているロングセラーの野菜である。昔から一富士、二鷹、三茄子(なすび)と云われるほど野菜としては
破格の扱いである。全国至るところで栽培され、加茂ナス、仙台長ナスなど地方風土に適応した数多の品種がある。ナスは漬物、揚げ物、焼き物、炒め物、煮物、汁物など料理の種類が多いことも人気が高い理由と思われる。
薄紫色のナスの花を畑から持ち帰り、竹の一輪挿しに活けて野趣を楽しむのもいいものである。

ネギの花

☆ネギの花は茎の先端に白緑色の小花が球形にびっしりと付く。この花の形が僧侶の頭に似ていることから葱坊主とも呼ばれる。葱坊主は種を採るために畑に残しておくもので、その姿や形はユーモラスな感じがするが、小花の一つ一つにはぎっしりと種子が詰まっている。葱坊主は花の期間が長いので長命、豊年満作に通じるとして昔から縁起が良いものとされてきた。そのために神輿の飾りや擬宝珠として橋の欄干などに取り入れられてきた由縁である。ネギの原産地は中国で奈良時代に渡来して全国で栽培されるようになった。
関東は白ネギ(根深ネギ))、関西は葉ネギ(九条ネギ)が栽培されることが多く、日本人にとって馴染みの深い野菜である.

菜の花畑

☆菜の花(ナバナ)は古代より全国いたるところで栽培され、春になると黄色一面に彩られる菜の花畑は日本の原風景である。与謝蕪村の「菜の花や月は東に日は西に」の句には、日本人の誰もが共有する叙情的な状景が詠まれている。
菜の花は食用としてはナバナ、食油としてはナタネ油として日常生活に欠かせないものである。菜の花の種子を搾って作られるナタネ油は食用油の6割を占めるほどで、てんぷら、揚げ物、ドレッシングなどに幅広く使われている。

全国地域ごとに特有のナバナがあるが、多摩地域ではノラボウという品種が開発され、畑で栽培している。お浸しにして食べると春の息吹のような食感を味わうことができる。
畑から花を切って家に持ち帰り、花瓶に一束飾ると部屋がいかにも春の明るさに満されるような感じがする。                          【つづく】

掲載日:平成31年7月16日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ





 野菜畑とダーウィン(1)

                                 野村邦男

多摩丘陵は高尾山麓から八王子、町田、川崎、横浜にかけてなだらかな起伏を繰り返し連なっている。
私が住まいしている川崎市北部は多摩丘陵の東端にあり、近くには多摩川が流れ、里山には雑木林、竹林、畑が所々に残る自然豊かなエリアである。
会社生活をリタイアした後は野菜栽培と里山保全の活動をしたいとかねてより思っていた。そうした折に、江戸時代から続く農家が近隣の人びとに農地を解放し体験農園を始めることになり、早速参加させてもらうことにした。
農園の主である純朴篤実な好々爺から、野菜づくりについて親身になって
手取り足取り教えていただいた。鍬の使い方、種まき、苗植え、育て方、収穫など栽培方法を伝授してもらい、落葉や野菜クズを利用した有機堆肥作り、藁縄、藁塚、沢庵や白菜の樽漬けの方法まで教わった。
現在は体験農園を卒業して、地元の農協の斡旋で農家からよみうりランド遊園地の近くの畑を借りて野菜づくりをしている。

多摩丘陵の里山
多摩丘陵の里山

自宅から徒歩で行くことができる40㎡ほどの小さな畑であるが、無農薬の野菜づくりはけっこう手間と時間と根気が要るので、一人で栽培する農作業に適度な面積である。
自らの手で種を播き、苗を植えた野菜が育つ様子を見るのは楽しいものであり、
収穫したばかりの野菜をその日のうちに食べると新鮮で格別な味わいがある。無農薬なので幼い子供たちはスーパーの野菜と味の違いがわかるのか喜んで食べてくれる。
野菜づくりを通して実際に体験したこと、見聞したこと、学んだことを、興味の赴くままに拙い文章を綴ることにしました。

野菜は国境も領海もない国際派
畑で農作業をしていると、野菜の生まれ故郷は世界中にあることに気がつく。
多摩の小さな畑に東アジア、中央アジア、中東、ヨーロッパ、中南米、北米、アフリカなどが原産の多様な野菜たちが共存していることに感嘆する。
植物は動物と違い自らは移動することができないので、人間の移動に伴い
野菜の種子が運ばれて世界中に広まっていったものと考えられる。
人間はお互いに国境だとか領海だと主張し合っているが、野菜はそんなことは
関係なく生命の種子を広げ、それぞれの地域に根付くことができるタフな
国際派であることがよくわかる。
現在日本で栽培されているほとんどの野菜は世界のいろいろな地域から
渡来したものである。畑の中で育つ野菜を見ながら、遠く離れた原産地から
はるばる日本列島にどのようにして渡って来たのか調べていると、想像の翼が広がり興味が尽きことがない。

野菜の種子が遠くまで移動するルートとして陸路と海路があると考えられる。
陸路の主たる道は古代から続く東西交易の道 シルクロードである。
シルクロードは唐の都長安から中央アジア、中東、地中海沿岸を経て古代
ローマに至る長い道である。天山南路と天山北路など幾つかの道筋があり、
標高5千メートルのパミール高原やゴビ砂漠、タクラマカン砂漠を越えて      
駱駝の隊商が多くの物資を運んだ。

シルクロードを行く隊商
シルクロードを行く隊商

このシルクロードの長い旅路を辿り、地中海、ペルシャ、中央アジア、インドなどの原産地から中国、朝鮮半島を経て日本に渡来した多くの野菜がある。
代表的な野菜には、ナス、キュウリ、タマネギ、ダイコン、カブ、ニンジン、ホウレンソウ、シュンギク、レタス、エンドウマメ、ソラマメなどがある。
また、中国が原産であるハクサイ、ネギ、ゴボウ、レンコン、ラッキョなどは遣隋使や遣唐使が持ち帰り日本に根付いた野菜である。

クリストファー・コロンブス (002)

海路はクリフトファー・コロンブスが新大陸アメリカを発見したことに始まる。
コロンブスはスペイン女王イザベル1世に幾度も大西洋を渡り新天地に行く
ための支援と許可を請願している。ようやく女王の支援を得て、マルコポーロの東方見聞録に記された黄金の国ジパングと胡椒産出のインドを目指して
サンタマリア号に乗り大西洋に船出した。
1492年厳しい航海の末に中米のサン・サルバドル島に到達する。そこはジパングでもインドでもなかったが、結果としてアメリカ大陸を発見したことは世界史上画期的な大発見となった。それ以降、帆船が大西洋、太平洋、インド洋を往来する大航海時代の幕開けとなった。スペイン、ポルトガルなどヨーロッパ諸国が中南米の各地域へ航海を重ね、多くの資源や産物を母国に持ち帰った。

サンタマリア号

当時帆船で運ばれた野菜としてはジャガイモ、トマト、トウモロコシ、カボチャ、サツマイモ、キャベツ、ブロッコリー、ピーマン、オクラ、アスパラガス、トウガラシなどがあるこれらの種子が世界中に広がり各地域で栽培され、人間にとって飢えからの救いとなる食べ物であり、安定した食生活が出来るための重要な食物となった。
日本には戦国期や江戸期にヨーロッパから南蛮船によって海路もたらされた野菜が多い。
ちなみに、縄文時代から日本に自生していた野菜はジネンジョ、ウド、フキ、ワサビ、アシタバ、セリ、サトイモなど限られたものである。現在日本人が日常食べているイネ、ムギ、ダイズなどの穀類をはじめ野菜の大部分は海外から渡って来たものである。

世界を旅する野菜のロマンに満ちた歴史と物語
今回はトマト、カボチャ、タマネギ、レタスに絞ってその旅路を辿ってみる
ことにする。

☆トマトはペルー、エクアドル、ボリビアにまたがるアンデス高地が原産地
で古くからインカの人々が食用としていた。

インカ文明・マチュピチュ遺跡
インカ文明・マチュピチュ遺跡

この地を征服したスペイン人が母国に持ち帰ったが、当初は赤い色と青臭い食味が嫌われ観賞用植物の扱いであった。19世紀になってから品種改良が行われ、イタリアをはじめ
南ヨーロッパで盛んに栽培されるようになった。現在では全世界に広がり
8000種もの品種があり、サラダとして生食するものからトマトソース・
ケチャップを使ったパスタ、スープ、シチューなどの料理に欠かせない最も
ポピュラーな野菜となっている。
日本には江戸中期に渡来したが、食用として本格的に栽培されるのは昭和に
入ってからであり、食の洋風化に伴う新しい感覚の野菜である。
スペイン人に征服されたアンデス高地のトマトが、洋食には欠かせない重要な食材となっていることに歴史のアイロニーを感じる。そして、トマトが何億人という多くの人々に毎日愛食され世界の食文化に大きな役割を果たしていることに、トマトの健闘を称えたい気持ちになる。
☆ カボチャのルーツはメキシコである。カボチャの旅路は遠大で世界中を渡り
歩いている。カボチャはコロンブスの新大陸発見によってヨーロッパに渡り
中国、カンボジアを経由して16世紀頃日本に到来した。名前はカンボジアに
由来し漢字では南瓜と書き、日本カボチャとも呼ばれている。
西洋カボチャはメキシコから南アメリカに渡りそこで改良され、日本には
明治期に渡来してから本格的な栽培が始まり現在では主流となっている。
カボチャはゴツゴツとして武骨な容貌であるが、世界中の人々から愛されて
いる野菜である。

ハロウィンのカボチャ

欧米の万聖節(11月1日)の前夜祭ハロウィーンは秋の
収穫を祝い悪霊を追い出す祭りで、カボチャがまさに主役である。
最近、日本でもどういう訳かハロウィーンが子供から大人まで参加する一大イベントとなり、カボチャをくり抜いた人形を作り、仮面をかむり衣装を着て練り歩く祭になっている。

☆ タマネギのルーツは中央アジアである。シルクロードをラクダの背中に
乗せられ中近東や地中海沿岸地域に運ばれた。

ギーザのピラミッド
ギーザのピラミッド

古代エジプトではピラミッドの建設労働者の貴重な食べ物であり、スタミナ源でもあったと記述されている。
その後ヨーロッパ全域に広がり、16世紀にアメリカ大陸に渡り、日本へは
江戸時代に南蛮船で渡来し、明治期以降洋食の普及に伴い需要が増大した。
タマネギは一見根菜のように見えるが、食べるのは根ではなく葉鞘(ようしょう)と呼ばれる葉の部分で、地中で玉状に丸く大きくなったものである。
現在ではタマネギはスープ、カレー、シチュー、ハンバーグ、サラダなど
日常欠かせない食材となっている。

☆ レタスの祖先は地中海沿岸とされている。レタスは現代的な洋風野菜の
代表のよう見えるが、意外に栽培は古く紀元前4500年前のエジプトの墳墓壁画に描かれていて、ローマ帝国では主要な野菜のひとつであった。東洋にはペルシャを経由、シルクロードの長い旅をして中国まで運ばれ、日本には奈良時代に渡来した。

シルクロードの終着地正倉院
シルクロードの終着地・正倉院

東大寺正倉院の古文書に「ちさ」と記されているほど歴史の古い野菜である。昔から結球しないカキチシャが煮物などに使われていたが、幕末にアメリカから伝えられた玉レタスが今日では主流となっている。
レタスはサラダのイメージが強いが、油炒め、煮物、スープなど加熱調理してもビタミン、カロテン、カルシウム、植物繊維などが摂取できるので健康増進
効果があると評価され、和洋中の料理に広く使用される野菜となっている。
                                  【つづく】

掲載日:平成31年7月14日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ






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 港ヨコハマ 私の風土記 (4)

野毛山とみなとみらい
紅葉坂を登って行くと野毛山に至る。この一体は緑豊かな木立の中に伊勢山
皇大神宮、不動院、音楽堂、能楽堂、図書館などがあり、文化の雰囲気が
漂っている。また、丘の上に広がる動物園には親子連れが訪れ、野毛山公園
からは港の景観が一望できる。
かつてこの地は、ペリーの黒船来航以来、幕府の神奈川奉行所が置かれ
条約交渉にあたる多くの役人が仕事と生活をしていた場所である。
その一角にある掃部山公園に井伊直弼の銅像が建てられている。

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掃部山公園・井伊直弼の銅像

港ヨコハマの歴史を遡ると、徳川幕府大老として開国を進めた井伊直弼の
働きを欠かすことができない。
井伊直弼は日本という国が幕藩体制から明治維新に大転換する時代の渦の
真ん中にいた有為転変の人物である。
近江彦根藩の十三代藩主井伊直中の十四男として生まれた庶子である。
17歳から32歳まで貧しい300俵の部屋住みの生活を送った。
この間に国学、兵学、居合術から茶道、和歌、能楽、禅に至るまで幅広い
文武両道の素養を身につけている。
その聡明さから巡り巡って第十五代藩主となる。その後幕府の老中、大老と
いう幕政の重職を担うことになり、開国と攘夷の激しい対立抗争の舵取りを
することになった。1858年(安政5年)直弼は開国論に立ち、
アメリカ及びヨーロッパ諸国との修好通商条約に調印した。
朝廷の勅許なしの条約調印に対する批判と尊皇攘夷運動が渦巻く中で、
安政の大獄と云われる処置を強行した。桜田門外の変で直弼は水戸脱藩浪士
たちに斬殺され、幾多の曲折を経て幕藩体制は崩壊し、明治新政府の時代を
迎えることになる。
直弼についてはさまざまな毀誉褒貶はあるが、200年以上続いた鎖国という
世界から閉ざされた体制を開国し、横浜、神戸、長崎、函館、新潟の5港を
開港した歴史上の意義は大変大きい。
井伊直弼の決断と実行によって、長い鎖国から世界に門戸を開き近代国家に
転換する契機となった。そして横浜が国際港湾都市として発展して、日本の
経済、社会そして人々の生活向上に貢献していることは間違いない事実である。
野毛の小高い丘の上に建つ井伊直弼像は、真向かいに広がる港の全景を
どのような思いで眺めているのであろうか。

JR根岸線の高架が通っている海側のエリアがみなとみらい21である。
かつて桜木町から乗る京浜東北線や東急東横線の車窓から延々と広がる
三菱重工横浜造船所が見えた。巨大な数多くのクレーンが動いている
光景が印象に残っている。
1980年代に造船所や国鉄操車場跡を再開発して、ウォーターフロント都市計画に基づき約30年をかけて整備建設された街である。

みなとみらい21の夕景 (002)
みなとみらい21の夕景

186haの広大な敷地には横浜ランドマークタワー、日産グローバル本社、
パシフィコ横浜などの高層ビルが林立し、赤レンガ倉庫群、大観覧車などの
観光施設もある。
みなとみらい地区にはイルミネーションに輝くホテルやレストランが多数あり、
国内外から多くの人々が訪れる華やかなエリアである。
一方、JRの高架を挟んだ野毛地区にはまったく違った街の様相がある。

野毛の呑み屋街

野毛の呑み屋街 (002)

野毛には600軒の店屋があると云われていて、その多くが飲食店である。
立ち呑屋、居酒屋、焼鳥屋、おでん屋、焼肉屋、ラーメン屋など庶民的な飲食店が多く、
軒を並べる店からはいろいろな食べ物の匂いが漂っている。
夕方には仕事を終えたサラリーマンや作業員で賑わい、店によっては路上に出された
小さなテーブルとイスで一杯やっている人たちもいる。
古くから人気のジャズ喫茶「ちぐさ」には馴染みのミュージシャンや愛好家が今でも
通っているようである。
学生時代、早大横浜会の友人たちと「養老の滝」という居酒屋で時折コンパをしたことが思い出される。安酒を飲みながら語り合った仲間たちと50年余りが経った現在も親交が続いている。
戦後の闇市からスタートした野毛は、今もなお雑然、混然としたエネルギーの溢れた町として庶民を引き寄せている。

移民船の別れのテープ
1950年代から60年代にかけて、大桟橋から移民船が船出する光景を
しばしば見た。船の銅鑼の音が鳴り響き、無数の紙テープを移民する人々と
見送る人々が手にして、船からも大桟橋からも大きな声が一斉に上がり、
多くの人達が涙していた。移民船が赤灯台を過ぎて船体が見えなくなるまで
見送る人達の姿と光景が瞼に残っている。

3移民船の出港風景 (002)
移民船の出港風景

かつての日本は移民政策を積極的に進めた国家であった。
明治初年1868年(明治元年)最初の移民150人がハワイに向って船出し、その後3万人ほどが移住している。その後、メキシコへの移民をはじめ
アメリカ、カナダなどへの移民政策が積極的に進められた。
1923年、合衆国は日本人の移民が急増したことにより反日世論が高まり
移民入国を禁止した。これを契機にブラジルやペルーなど南米への移民が
本格化した。
一方アジア地域では1895年台湾の日本領土化、1910年朝鮮併合、
1914年ミクロネシア委任統治領化など植民地化政策の拡大により
何十万人もの人々が移民、移住した。
更に、1932年(昭和7年)満州国建設に伴い国家政策として500万人
という無謀にして途方もない移住計画が立てられた。
その実行部隊として満蒙開拓団が結成され東北、中部地方の農民約32万人が半ば強引に移住させられた。
またフィリピンをはじめ東南アジアの諸地域にも殖民として送りこまれた。
こうした国家政策のもとに移民、移住した多くの人々は厳しい環境の中
苦難の生活を送り、異国の地に家族が離散し、命を落とす惨劇が数多生じた。
特に、満州に移住した多くの人々が戦争に巻き込まれ悲惨な犠牲者となり、
家族と離別した中国残留孤児という悲しい惨禍が現在まで続いている。
中にはブラジルやアメリカなどで苦難を克服し、農場や牧場の経営に成功し、その地で日系人として二世三世と事業を継承しながら活躍している人々もいる。
また移民を受け入れた地域や社会の発展のために貢献している事例もある。
戦前、戦中は日本からの移民は完全にストップしていたが、1951年(昭和26年)サンフランシスコ講和条約の締結により、海外への定住農業移民が
再び開始されることになった。以後、ブラジル、アルゼンチン、ドミニカ、
ボリビアなど南米への移民が増大した。
大桟橋からしばしば見た光景は、移民船ぶらじる丸やあるぜんちな丸で移民
する人々の送別の情景であった。
時は移り、最近はブラジルをはじめ南米諸国、東南アジアから多くの人々が
日本に仕事を求め移住してきている。

世界の近現代史は移民、難民問題を抜きにしては語ることが出来ない。
古今東西、世界のほとんどの紛争と戦争は領土、民族、宗教そして移民・難民による問題から引き起こされている。
スペイン、ポルトガルによる中南米の殖民地化と支配、イギリス、フランス、ドイツなどによるアジア、中東、アフリカ諸地域の植民地支配と入植移民、
ヨーロッパ諸国からの新大陸アメリカとカナダへの大量移民、そしてアフリ
からアメリカ合衆国への強制的奴隷移民などが行われてきた歴史がある。
こうした移民が多くの犠牲と紛争を生み出したことも事実であるが、
一方欧米諸国の多様性のある社会と文化をつくってきたことも事実である。

しかし、最近はアメリカ合衆とヨーロッパ諸国において移民・難民受入れ
制限や禁止の動きが顕著となり深刻な問題となっている。
こうした事態は対岸の出来事ではなく、日本の戦前、戦後の移民政策を
振り返り、今後海外から受け入れる移民、移住について真摯に考察する
ことは日本人にとって大きな課題であると思われる。

氷川丸の戦争と平和

⑤山下公園の氷川丸 (002)
山下公園の氷川丸

山下公園の岸壁に氷川丸が繋留されている。岸壁を繋ぐロープにはいつも
数羽の白い鷗が止まり、多くの人々が見学に訪れている。
赤灯台が見える穏やかな海辺に浮くスマートな船体は港のシンボルである。
しかし、氷川丸は戦争と平和の生き証人とも言える存在である。

この船は1930年、北米シアトル航路の貨客船として横浜船渠で建造され
就航した。オーシャンライナーという船型、アール・デコ様式の船内
インテリア、一流シェフによる料理など当時としては最先端をいく船であった。
戦前は多くの人々を運び、中にはチャールズ・チャプリンや宝塚歌劇団などが乗船して日米を繋ぐ文化的な役割を果たしていた。
しかしながら、日米開戦を間近にして交換船として在米・在加の日本人の帰国、在日アメリカ人・カナダ人を本国に送るため太平洋を往復している。

2病院船時代の氷川丸 (002)
病院船時代の氷川丸

戦争中は日本海軍に病院船として徴用され、船体は白色、緑色の帯を引き
赤い赤十字のマークが付けられた。
傷病兵を輸送する中、インドネシア・スラバヤ、カロリン諸島、シンガポールなど危険な海域を航行し、魚雷による攻撃、機雷の爆発によって被害を
受けたが、沈没を免れたことはまことに奇跡的であった。
終戦後、暫らく外地からの引き揚げ者の輸送の任務を担い、シアトル航路への復帰を果たした。平和の時代となり、多くのフルブライト交換留学生などを
乗せてアメリカへと向う文化的交流の役割も担った。
1960年、太平洋横断239回目の最終航海を終え、この間25000人
もの人を運んだと記録されている。

太平洋戦争の顛末として、ミッドウエイ海戦、ガダルカナル海戦、戦艦大和・武蔵の沈没などについて語られることが多いが、民間の貨物船、客船の膨大な船舶が犠牲となり沈没している史実が語られることは少ない。
戦前の日本の商船隊は世界第三位の陣容であったが、この戦争によって
失われた船の総数は2600隻、840万総トンにのぼり、壊滅的な被害を
受けた。本来客船、貨物船として運航されていた多くの商船が海軍によって
強制的に徴用され、軍艦あるいは輸送船として用いられた。
無防備の船はなすすべもなく爆弾や魚雷によって撃沈され海の藻屑となって
消えてしまった。戦争の悲惨さ、多数の船舶の消滅ばかりでなくおびただしい数の民間人である船員が命を落としているところにもある。

氷川丸はこのような凄まじい戦禍の中を生き残った数少ない外航船である。
解体される予定もあったが、この船を保存したいという多くの人々の強い要望によって大規模な補修が行われ、港のシンボルとして山下公園に繋留されることになった。
現在は国の重要文化財に指定され、日本郵船が管理する博物館船氷川丸として一般に公開され平和な余生を送っている。
この氷川丸を眺めるたびに、この船が辿った戦争と平和について考えさせられることが多い。
平穏な青い海、空飛ぶカモメ、大桟橋に接岸している外航船、湾内を走るクルーザー、コンテナヤードのガントリークレーン、湾岸地域を結ぶベイブリッジ、臨海部の工場群を見渡し、そして穏やかに静かに船体を浮かべる氷川丸を見ていると平和の大切さが一層感じられる。   
                                  【

掲載日:平成31年3月19日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ

 港ヨコハマ 私の風土記 (3)

高校12期 野村 邦男

山手に流れる教会の鐘の音
港の見える公園から西に向って根岸競馬場(現根岸森林公園)まで丘陵尾根に山手通りが続いている。この丘の道筋には多くの学校と教会と異人館があり
異国情緒の景観と文化が漂っている。
フェリス女学院、雙葉学園、横浜インターナショナルスクールなどがあるが、

画像の説明
特にフェリス女学院は古くから馴染みのある学校である。

明治初期1875年にアメリカの伝道者マリー・ギターによって日本の若い
女性たちを啓蒙、育成するために設立された。緑に囲まれた校舎の窓からは
いつもピアノの音が流れていて、近くの高射砲跡の草原は子供たちの遊び場であった。
通っていた市立元街小学校は山手公園の近くにあり、1873年(明治6年)創立の歴史の古い学校であるが、米軍による空爆から免れ戦後すぐから授業が行われていた。
校長の話で「私たちの国は戦争に敗れたため国も家庭も大変貧乏である。
物を沢山作って外国に輸出してお金を稼がなくてはならない。」と、いかにも
港町の学校らしい話が妙に記憶に残っている。
山手通りにはカソリック山手教会、山手聖公会、イエス・キリスト教会など

カソリック山手教会

カソリック山手教会140558_0

多くの教会がある。カソリック山手教会は開港後、最初に創設された教会で
青い尖塔のあるゴッシク様式の聖堂はどこからでも見えるシンボル的な存在である。小学校の帰りに堂内を覗くと、正面にキリスト像があり、ステンド
グラスからの淡い光がつくる雰囲気は、別世界にいるように感じられた。
英国国教会系プロテスタントの山手聖公会の聖堂は元町公園の向かい側にある。大谷石で造られたノルマン様式の建造物で、厳粛な感じがする教会である。

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イギリス館

山手通りに沿って、イギリス館、エリスマン邸、ベーリック邸、イタリア
外交官の家など異人館が点在している。
丘の上のイギリス館(旧英国総領事公邸)からは港全体を見渡すことが出来、イングリッシュガーデン風のバラ園には四季折々色とりどりの花が咲いている。
開港以来、いち早く貿易業務を開始し、一番多く居留したのが英国人であった。
ジャーディン・マセソン商会、モリソン商会、マーティン商会など貿易会社が進出する一方、多くの技術者が来日して鉄道、造船、築港、水道など基幹になる事業の技術指導を行っている。外人墓地の墓標の半数は英国人で、彼等がこの地に根を下ろし横浜の礎を作った証でもある。
1872年(明治5年)に開通した新橋―横浜間の鉄道建設はエドモンド・モレルの技術指導による。モレルは粉骨砕身の働きをしていたが、この異国の地で病没し外人墓地に葬られている。
横浜の港湾施設と都市機能の整備をしたのが建築家チャード・ブラントンである。
大型船が直接接岸できる桟橋の建設、灯台の設置、近代的下水道の施設などを行った。
開港により急速に増加した住民のために衛生的な飲み水が必要となり、技術者ヘンリー・パーマーは相模川の上流から延々40キロの水道管を敷設し我が国初めての近代的な水道システムを造った。                    

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      山手公園

また、英国人は、公園、競馬場、テニスコートなど今までの日本にはない
新しい生活スタイルを植え付けた。山手の公園、学校、教会などに多くのヒマラヤ杉が
見られるが、イギリス人ブルークがインドから持ち帰り植えた種子が大きく育ったものである。

今は静かな異国の雰囲気が漂う山手通りであるが、開港当時はイギリスと
フランスの軍隊がこの山手の一角に駐留して緊迫した時期もあった。
歴史を遡ると19世紀、ヨーロッパ列強はアジアに進出して多くの地域を
植民地化した。イギリスはインドへの侵略と殖民地化、アヘン戦争により清朝を隷属化、香港、ミャンマー、マレーシアを植民地にした。
フランスはベトナム、ラオス、カンボジアを、オランダはインドネシアを、
アメリカはフィリピンを植民地として支配した。
日本は開国以来波乱に満ちた歴史を辿ることになるが、これらの列強によってアジア諸国のように殖民地にされることがなく、近代国家に転換し文明開化の道を進むことが出来たことに改めて感慨を覚える。

元街のパン焼く匂い
1859年(安政6年)の開港に伴い波止場や外国人居留地を造るために、
もともと海辺に住んでいた横浜村の住民が幕府の命令で強制的に移住させられた。
山手の丘陵下と堀川沿いの細長いエリアに移り住んだ人々が外国人向けの
商売を始めたのが元町である。
文明開化の波をいち早く取り入れて、欧米風の衣服、家具、食品などハイカラな商品を自ら作り販売するようになった。
以来、元町は港ヨコハマを代表するファッショナブルな商店街となり、
今では、お洒落な婦人服、紳士服、バッグや靴の革製品、洋家具、装飾品、
洋菓子を扱う店舗と、ベーカリー、カフェなどが建ち並び、全国から
多くの人が訪れショッピングを楽しんでいる。

日本人は長年にわたり米や麦を炊いたご飯を主体とした食生活であった。
欧米人が持ちこんできたパンという食べ物は当時の人々にとってはまったく
異質の新しい食材であり、文明開化の香りがする食べ物であった。
最初は居留地の外国人たちが食べるものとしてイギリス人やフランス人が
自らベーカリー工場をつくりパンを焼いていた。
明治初期、打木彦太郎はイギリス人からパンの製造ノウハウを学び、自家製
自家製酵母を使った独自のパンを開発した。

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元町に開業した「ウチキパン」は日本人にも受け入られる評判の高いベーカリーとなった.
今でもイングランドパンなどに人気があり、焼き上がる時間にはお客が列をなしている。子供の頃、この店の周りにはパンを焼く匂いが漂い何とも美味しそうに感じられたものである。
横浜や神戸という港町から始まったパンは徐々に全国に広がって行ったが、戦前までは一部の日本人の限られた食べ物であった。戦後、占領軍の進駐に伴いアメリカの食スタイルが一気に浸透して、パンはその代表的な食べ物として広く受け入れられた。
またアメリカの援助で始まった学校給食はパン食が中心であったこともあり、子供が成人になるに従いパン食が日常欠かせない食べ物となり、広く普及する要因ともなった。
パンの品種も豊富になり、扱う店舗もベーカリーからスーパー、コンビニに至るまでどこでもいつでも購入できる食べ物となった。
2011年度家計消費調査の一所帯当り購入金額でパンが米を上回る主食アイテムにまで成長し、日本人の食生活がバラエティ豊かになっている。
戦後すぐに父親が市電の元町停留場の近くに千浜屋という食品店を開業し、
小売と業務用卸業を営んでいた。
元町、関内、伊勢崎町、野毛界隈の飲食店に食材を納めていて、学生時代は
オートバイや小型トラックで商品の配達や集金の手伝いをしていた。
元町の代官坂を上る中腹にあるナイトクラブ・クリフサイドに、商品の配達に行くとトランペット、ドラム、ピアノなど演奏する音が聞こえていた。

クリフサイドクラブ (002)
クリフサイド

南里文雄をはじめ有名なジャズ演奏家、シンガーなどがステージに立っていて、港の夜の社交場であった。現在もエキゾチックな雰囲気の中、若い人達が生演奏とダンスを楽しんでいる。
関内や伊勢佐木町は洋食店、和食店、居酒屋、スタンドバー、カフェなどいろいろな飲食店が、働く人達の食事や憩いの場として大変賑わっていた。
戦後の復興、朝鮮戦争の特需そして高度経済成長という時代の中で、港も町も働く人々も活気に溢れていたことが懐かしく思い出される。

華僑の人達の落地生根
市立港中学校は中華街の入り口延平門の近くにある。当時の在校生は1クラス50人10組で1学年500人もいた。クラスメートに中国人の生徒もいて、中華街をよく歩き回っていたこともあり、馴染みのある場所である。
かつては中華街の店先には鶏や子豚の丸焼きがぶら下がり、あたりには
中華料理特有の匂いが漂い、路地に入ると小さな料理店がひしめいていた。

中華街2018-10-14

現在では聘珍楼、満珍楼など有名中華料理店が軒を並べ、料理も広東、上海、北京、四川、台湾と幅広く、多彩なメニューを競っている。中華料理店を中心に食材、菓子、雑貨などを扱う店が500店ほどあり、賑やかで楽しい街になっている。
開港にあわせて、欧米人と共に多くの中国人が香港や広東から横浜にやって
きた。当初は欧米人の通訳、給仕、家具職人、日用雑貨、衣料品の商いなどであったが、徐々に料理人も増えて中華料理店も増加した。
日清戦争、関東大震災、日中戦争、太平洋戦争など中国人にとって厳しい事態が続いたたが、彼らの不屈の逞しい生活力によって今日の盛況がある。
明朝や清朝の時代から中国本土を離れて海外で生活する多くの中国人が東南アジア一帯に根づいていて、こうした人々は華僑と呼ばれている。
横浜に根づいた華僑の人達は福建とか福州の出身者が多く、連帯の絆が強くお互いに助け合うネットワークを作っている。商売や仕事をするための資金の融通や情報の共有、人脈の活用など大変根強いものがある。
清朝を倒し中華民国を樹立した孫文は、華僑によってこの地でかくまわれ、支援を受けながら辛亥革命の運動を続けたと云われている。
戦後、中国が中国共産党(毛沢東)の本土と国民党(蒋介石)の台湾に分離した時には中華街の中でも対立が生じたが、政治的抗争を克服したのは街の発展を第一にした華僑の精神であった思われる。

華僑に落地生根という言葉がある。海外に渡り、その地で懸命に働き生涯を
終えても、その魂は根を張って新しい命に繋ぎ事業を継続していくという
精神が込められている。華僑の人で日本国籍を取得した人を華人と呼んでいる。
華人である龐柱深(バンチュウジン)氏は中華街および横浜の発展に貢献したが認められ、戦後初めて勲五等瑞宝章が授与された。天皇陛下から勲章を貰えるとはこれほどの喜びはないと本人が語っていたとのことである。長年人種差別で苦しみ幾多の困難を乗り越え、この横浜の地に根付いた華僑の人々の心情が伝わってくる逸話である。

つづく

掲載日:平成31年3月12日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ

 港ヨコハマ 私の風土記 (2)

高校12期 野村 邦男

三渓園につながる絹の道

三渓園 
  

本牧の海辺と丘陵の間に三渓園がある。18万㎡の広大な敷地に大きな池が
あり、小高い丘の上には三重塔が建っている。京都をはじめ各地から移築した臨春閣、秋聴閣、月華殿など多くの重要文化財の建物が庭園に配置されている。

原三渓

原三渓1)

三渓園は、生糸貿易で財をなした実業家であり、茶人、美術品収集家でもある
原三渓(富太郎)が長年かけて造園したものである。
多くの市民がこの名園を訪れ四季折々の景観を楽しんでいる。鶴翔閣と呼ばれ
る茅葺屋根の風情ある家屋は結婚式、茶会、俳句会などに利用されている。
開港した横浜にはアメリカ、イギリス、フランスなどの貿易商がやって来て
取引を始めると共に、日本の各地からも人々が集まり商売を始めた。
商いの主体は生糸と緑茶であり、横浜から船積みする品物の大部分を
占めていた。生糸貿易が増大する中で原善三郎や茂木惣右衛門などの豪商が
輩出した。原善三郎の婿養子となった三渓は経営能力が優れていて、
富岡製糸場をはじめ多くの製糸工場を経営し、生糸貿易を拡大した。
そして横浜興信銀行(現横浜銀行)の頭取を務め産業経済の基盤をつくり、
港ヨコハマの発展に貢献した。
1923年(大正12年)に発生した関東大震災による横浜の被害は特に
甚大であった。市街地の建物と港湾施設の大部分が倒壊し、死者2万、
焼失家屋6万の大惨事であった。
三渓は横浜市復興会の会長を務め、私財まで投入して復興に尽力をした。
一方、三渓は美術にも造詣が深く、岡倉天心との親交も厚く前田青邨、
横山大観、下村観山などを援助して彼らの画業を支えた。
三渓園を早い時期から一般市民にも開放するという公共精神の持ち主で
あり、社会貢献にも尽力した人物であった。
こうしたことから原三渓は生前から今日に至るまで多くの市民より
敬慕されている。

開港した横浜から輸出する物品としては生糸が主力であった。江戸時代から
蚕を飼育し繭から生糸を紡ぐ養蚕農家が信州、甲州、上州の各地にあったが、
生糸が欧米諸国に輸出されるようになると生産量が急速に増大した。
生糸の作り方も手繰りから製糸機械の導入により飛躍的に生産性が上がり、
殖産興業の政策のもと、官営富岡製糸場などが操業を始めた。

富岡製糸場
富岡製糸場の全景

広範囲の地域で作られる生糸を集荷、品質管理をし、輸出する業務を担うのが
生糸貿易商であった。生糸の輸出は年々増大し外貨を稼ぐ重要な品目であり、明治から昭和初期まで常に一番輸出金額の多い品目であった。
日本経済発展の原動力であり、日清・日露戦争の軍需費など国家財政を支えたとも云われている。
古代中国から中央アジア、中東、ヨーロッパに至る街道がシルクロードと
呼ばれたように、生糸の生産地から横浜まで運んだ道が絹の道と呼ばれている。
岡谷、諏訪、甲府、秩父などで作られた生糸は八王子に集められ、そこから
馬の背に乗せられ町田を経由して横浜港まで運ばれた。
また、富岡、高崎、前橋など上州の生糸は倉賀野河岸から利根川、江戸川を
船で下り、日本橋に集められ横浜に運ばれた。
その後、生糸の輸送は横浜線や高崎線の開通とともに鉄道輸送に切り替わった。
絹の道が今でも残っている八王子南部の鑓水(やりみず)あたりの道筋を
歩いたことがある。樹木の生い茂る起伏のある細い道で、かつて馬の背に
沢山の生糸を乗せて運んでいた様子が目に浮かぶようであった。
そこには横浜の港と地方の養蚕業、製糸業を結びつけた生糸の歴史があり、
その活況が三渓園まで繋がっているということを物語っている。

進駐軍のカマボコ兵舎
カマボコ兵舎images

焼野原となった横浜

焼け野原となった横浜市街

1945年(昭和20年)5月29日米軍による横浜爆撃は凄まじいもので
あった。B29爆撃機517機から25万発もの焼夷弾が投下され、
横浜の市街地は焼き尽くされ焼け野原となってしまった。
死者2万人、罹災者31万人、焼失家屋8万という壊滅的な被害であった。

3月10日の東京大空襲、8月6日の広島の原爆投下、8月9日の長崎の原爆
投下と同じように膨大な数の一般市民が犠牲となった。
戦争という狂気がこのような大量殺戮と惨劇を惹き起こしてしまうことに、
改めて恐ろしさを覚える。
8月15日の終戦宣言により、満州事変から太平洋戦争に至る15年間の
無謀な戦争が終結することになった。

厚木基地に降り立つマッカーサー
厚木基地に降り立つマッカーサー

8月30日、連合国最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木飛行場に降り
立ち、占領政策が本格的に遂行されることになった。
マッカーサーは横浜ニューグランドホテルに暫らく滞在し、その後GHQ本部(連合国総司令部)は皇居前の第一生命ビルに移る。GHQとは別に占領を
指揮する第八軍司令部は横浜税関ビルに置かれ、10万もの将兵が上陸して
米軍の統治支配が行われることになった。
大桟橋、新港埠頭、倉庫、工場、ホテル、ビル、デパートなど主要な施設と
民間人の家屋、土地、農地が強制的に接収された。
横浜エリアで進駐軍によって接収された港湾施設、土地、建物などは、沖縄を 除く全国の6割にも達し、その後長年にわたり使用されることった。
焼け野原には兵士用のカマボコ兵舎と将校用の住宅が次々と建てられた。
                     
市の中心部には兵隊用の簡易兵舎が沢山建ち並び、山手、根岸、本牧地区には
将校用家族住宅が建てられた。
今では想像も出来ないが、伊勢佐木町の近くに飛行場が建設され、鉄条網の先には戦闘機や輸送機が離着陸していた。
国道1号線から桜木町を経て横須賀にいたる幹線道路16号線には軍用
トラックやジープが頻繁に走り、時には戦車が轟音を響かせて走行していた。
神奈川県内には横須賀海軍基地、厚木航空基地、陸軍キャンプ座間、相模総合補給基地など米軍の重要な基地が多数あった。今でもこれらの基地が残されているという状況が続いている。
1945年の夏を境に、横浜には突然アメリカの文化、住居、食べ物、音楽、
スポーツ、ファッションなどが一挙に流れ込んできた。
戦災を受けた市民たちが粗末なバッラクに住み、食べ物に飢えている状況の中、一方では豊かなアメリカの生活スタイルが存在していた。

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接収校地の一部解除を受けたが米軍のカマボコ兵舎に押しやられた校舎二棟

本牧の丘の上にある母校横浜緑ヶ丘高校のまわりには青々とした広い芝生の庭にライトブルーやオフホワイトの米軍将校の家族住宅が点在して、そこにはまるで別世界の豊かな風景が広がっていた。
戦後の米軍占領という現実が間近にあるにもかかわらず、緑高は解放的で自由闊達な校風と共に明るい青春の雰囲気が醸成されていた。
近くに住むアメリカ人の少年と顔なじみになり、学校で学んだ英語を使いながら英会話の
練習をしていたことが懐かしく思い出される。

本牧米軍ハウスimage06
本牧米軍ハウス

接収された大桟橋、新港埠頭、税関ビルなど主要な港湾施設の返還は
1951年サンフランシスコ講和条約の締結を経て段階的に実施された。
ちなみに米軍の山下公園住宅地が返還されたのは1960年、本牧住宅地は
1982年である。
長年の占領により横浜の復興は他の都市と比べ遅れていたが、接収解除と
返還を契機として本格的な復興が進められることになった。
横浜にとって港湾設備と機能の拡充が不可欠であり、大桟橋、高島埠頭、
新港埠頭の整備と、山下埠頭、本牧埠頭のコンテナヤードの新設などが
急ピッチで進められた。
朝鮮戦争の特需により、三菱重工横浜造船所、日産自動車トラック工場、
日本鋼管鶴見製鉄所などの生産活動が本格化した。
戦争の傷跡がいたる所に残っていたが、徐々に焼け野原が新しい街に生まれ
変わっていく様子を目にした。その後の高度経済成長の波に乗って横浜が
急速に発展し今日の様な国際港湾都市に変貌した姿に隔世の感を覚える。
しかし、戦後70年余りが経過した現在でも、沖縄をはじめとして横須賀、
厚木、横田、北海道、三沢、岩国、佐世保など全国には134ヶ所の米軍基地と軍事施設、1010平方キロメートルもの土地が占有されていることを
あらためて自覚させられる。
進駐軍のカマボコ兵舎を思い出すたびに、全国には戦争と隣り合わせの多くのエリアがまだ残されている現実について考えさせられる。

つづく

掲載日:平成31年3月7日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ

 港ヨコハマ 私の風土記 (1)

                              高校12期 野村 邦男
                            

港ヨコハマの風景
港ヨコハマの風景

港の見える丘公園からは横浜の港湾のほぼ全景を眺めることができる。
中央に大桟橋、新港埠頭、左には港みらいエリアに建つランドマークタワー、
右側に目を移すと湾を跨ぐベイブリッジ、山下埠頭のコンテナヤード、
そして湾の遠方には京浜工業地帯の工場群を一望することができる。
幕末1854年マシュー・ペリー提督が率いる黒船が来航し日米和親条約を
結んだ横浜村は、戸数が100戸にも満たない半農半漁の寒村であった。
現在、港ヨコハマは世界を結ぶ国際港湾都市であり、首都東京に次ぐ人口
370万人の大都市となっている。
横浜が開港して以来160年余りであるが、日本の2千年を超える
歴史の中で、これほど短い年月の間に大きく変貌をとげた地域は他には
ないと思われる。
また、この歳月は1942年生まれの私にとって倍ほどを遡った歴史であり、
身近な風土でもある。
横浜に生まれ育った者の風土記として、港ヨコハマの変貌の歴史を自分の
体験と記憶を重ねながら綴ることにしました。

玉楠の木が見ていた黒船と文明開化
  ハイネの絵 右端が玉楠         開港記念館の玉楠
tamakusu-ヨコハマ上陸 たまくす              
大桟橋に向う道筋に開港資料館があり、その中庭に大きな玉楠(タマクス)の木が艶やかな緑の葉を茂らせている。
1854年(嘉永七年)ペリー艦隊が来航し、日米和親条約が結ばれたのが
武蔵国横浜村である。ペリーに随行した画家ハイネが、浜辺に建てられた
臨時の応接所での徳川幕府の役人とペリー提督及び大勢の将兵が立ち並んで
いる状景を描いている。その絵の右端に水神の祠と玉楠の木が描かれている。
この玉楠の木は黒船来航から、開港、明治維新、文明開化、関東大震災、
太平洋戦争、戦後の復興、現在の港ヨコハマに至る変貌を見てきた
生き証人のような存在である。
小学校でよく歌わされた横浜市歌の作詞は森鴎外であるが、その歌詞に
「むかし思えばとま屋の煙 ちらりほらりと立てりしところ」とあり、
開港前の横浜は何もない寂しい寒村であったことが詠われている。
1858年(安政五年)日米修好通商条約締結に伴い開港が決定し、横浜、
神戸、長崎、新潟、函館の5港が世界に開かれた。
幕府は急遽、横浜村に東波止場と西波止場を建造し、運上所(税関)を設置し
外国人が営業・居住するエリアを派大岡川と堀川で囲み居留地として
整備し、要所に関所が設けられ以後関内と呼ばれるようになった。
海岸通り、日本大通り、馬車道などには欧米の商館が建ち並び、日本各地から
移住してきた商人の店舗、幕府役人の住居などが作られ急速に賑わいのある
町に変貌した。
これまでに見たこともない建築物、家具、服飾、食べ物、乗り物
などが海外から瞬く間に入ってきて、いわゆる文明開化がこの地から広がった。
徳川幕府が崩壊して明治新政府が樹立され、都が京都から遷都され東京が
政治経済の中心となった。そして首都東京に近い横浜が外国との交易、
人々の往来の玄関口として飛躍的に発展することになる。
明治維新後の変革と世界の激動の渦に揉まれながらも国際都市として
成長するが、関東大震災の大規模災害と太平洋戦争末期の空襲によって
壊滅的な被害を受けた。その後、進駐軍の占領時期を経て今日あるような
復興を遂げて港湾都市に発展した。
玉楠の木は災禍によって二度も焼けてしまうという損傷を受けながらも
自力再生して、横浜が劇的に変貌する姿を現在も見続けている。

波止場から世界に船出した若き人々
大桟橋の先端に立って港の状景を眺めていると、開港したばかりのこの波止場
から夢と志を持った若い人達が、世界に向って船出した状景が目に浮かんでくる。
1871年、明治維新を成し遂げた新政府は欧米の政治経済、法律、技術、文化などを修

岩倉使節団 (002)
岩倉使節団

得するために、岩倉具視を全権大使として遣米欧使節団総勢107名をこの波止場から
送り出している。
この使節団の中に木戸孝允、大久保利通、伊藤博文などがいて、帰国後に
新しい近代国家を建設する重要な働きをすることになる。
しかし、こうした歴史上著名な人物達の他に、欧米留学のために随行
する43名もの若い人たちがいた。
明治新政府は国が発展するためには欧米の文化、文明を早く取り入れることが
必要であり、将来の日本の国づくりためには若い人々の教育を重要政策の
根幹に置いていたことが窺える。
更に驚くことにこの留学生達の中に幼い少女たちが含まれていた。
一人は後に津田塾大学を創設する満6歳の津田梅子であり、もう一人は
後年陸軍元帥大山巌の妻となる満11歳の山川捨松である。

津田梅子  渡米直後6歳の梅子

渡米直後6歳の梅子
津田梅子 (2)

津田梅子は佐倉藩士の娘であり、父親のすすめで留学に応募して随行員となる。
6歳という幼い女児が、言葉も生活様式も風習もまったくわからない異国の
地に親元を離れて行くということは大変な覚悟が必要であったと思われる。
不安な気持になったりホームシックにもかかったりしたことが想像される。
ワシントンの日本弁務館書記のチャールズ・ランマン夫妻に預けられ、
その地で11年間初等学校と女学校に通い知識と教養を身につける。
17歳で帰国し、伊藤博文の英語指導や華族女学校の英語教師などをしている。
その後再度渡米してフィラデルフィアのカレッジで英語、ラテン語、フランス語を修得し、英文学、生物学、自然科学、心理学、芸術など幅広く学んでいる。
再び日本に戻った梅子は、封建的な風習に囚われている日本の女子の啓蒙と
育成のために生涯かけて尽力する。
女子英学塾(後の津田塾大学)を創立して華族・平民の別のない教育を行い、留学時の友人大山捨松、アリス・ベーコンの協力のもと自由で進歩的な女子
教育を実践した。津田梅子は恵まれない女学生を自宅に預かるとか、奨学金
制度を作り募金活動をするなど献身的な真の教育者であった。

山川捨松 後に結婚する大山巌

大山巌 日露戦争の満州
山川捨松

山川捨松は会津藩家老の娘で八歳の時に戊辰戦争が勃発、子供ながら会津城に籠城して決死の戦いの一員でもあった。会津の敗戦により家族ともども苦難の生活を送っていたが、聡明で向学心の強い11歳の少女は官費留学に応募する。
捨松とは奇妙な名前であるが、異国に旅立つ娘を案じた母親が「さき」という名を改名したようである。一度捨てたと思って帰国を待つという思いが「捨松」という名前に込められているとのこと。
コネチカット州のベーコン牧師宅に寄宿して、ヴァッサー女子大学を優秀な
成績で卒業している。英語、独語、仏語をマスターし、英文学、生物学、
看護学、国際政治学などを学んでいる。帰国後、会津城攻略の先頭に立って
いた薩摩藩士大山巌と結婚する。大山巌は日清・日露戦争で参謀総長や満州軍総司令官として勝利に導く大きな貢献を果した人物である。
捨松はその知性と教養によって、大山巌と共に列強の外交官たちとの親交を
広げる役割を果たしている。また、津田梅子の支援者として女子教育に尽力し、
日本赤十字社の活動にも熱心に取組んだ。
明治という時代は、戊辰戦争で敗れた賊軍の藩士の子女であっても官費で
アメリカ留学を許し、若い女子にも先進的な文化文明を吸収する機会を与えている。また、かつて砲火を交えた敵味方の男女が結婚するという恩讐を
超えた寛大な精神が宿っていたことに感銘する。

高橋是清

高橋是清

この波止場から船出した人物に高橋是清がいる。是清は幕府御用絵師の庶子
として生まれ、仙台藩の江戸在勤の足軽の家に里子として出された。
十二歳の時に藩命により横浜へ洋学修行に行き、3年ほど開港場のアレキサンダー・シャンドという銀行家の店舗兼家屋に住み込み、掃除や給仕をしながら英語や実務を学んだ。1867年(慶応三年)大政奉還という激動の年、
15歳の是清は官費でアメリカの政治経済文化を学ぶ為に、コロラド号に乗り出港した。幕末から明治の初期、足軽の子供でも勉学の機会が与えられ、
海外に雄飛することが許されるという、大らかで進取に富んだ時代の風が
感じられる。
帰国後、共立学校(現開成高校)の校長となり、教え子に俳人の正岡子規、
日本海開戦の参謀秋山真之がいる。まさに「坂の上の雲」に登場する人物たちである。日露戦争で戦費が底をついていたため、日銀副総裁として英国に
向かい外債を公募して軍費を調達した。これによって何とかロシアに勝利することができた一つの要因と云われている。
その後、是清は日本銀行総裁、大蔵大臣、総理大臣を歴任し、特に財政金融
政策に精通して歴代内閣の大蔵大臣を6度も勤め日本経済の難しい舵取りに
重要な役割を果たした。しかし、軍事費拡大に反対する方針を堅持したため、1936年(昭和11年)二・二六事件の際に凶弾に倒れた。
これを契機に日本は歯止めを失い、日中戦争、太平洋戦争へと突き進み、
悲惨な結末を迎えることになった。
横浜から船出した高橋是清は波乱万丈の生涯であったが、軍部の跋扈に抵抗
した信念の人であった。

岡倉天心

岡倉天心(1)

また、この波止場から船出した人物に岡倉天心がいる。
大桟橋の近くに開港記念会館があるが、ここはかつて生糸の取引所があった
場所であり、岡倉天心生誕の地でもある。
天心は開港して間がない1863年に生まれているのでハマっ子の元祖と言うことができる。父親覚右衛門は福井藩士で藩命により、この地で生糸を扱う
貿易商店「石川屋」の責任者をしていた。文明開化の時代に先駆けて、天心は
幼少時より英語を身につけ欧米の文化に慣れ親しんでいたことになる。
東京開成所(現東京大学)で政治学、理財学を学び、講師のアーネスト・
フェノロサに師事し日本美術に開眼する。
1886年横浜から船出した23歳の天心は、フェノロサと共に欧米美術を
見て回る中で日本美術の独自性と特長を深く認識する。
帰国後、東京美術学校(現東京藝術大学)を開校し初代校長となり、横山大観、下村観山、菱田春草など日本美術界を代表する英才を育成している。
また、ボストン美術館中国・日本美術部長を務め、英語版「茶の本」「日本の
覚醒」などを通して広く世界に茶の精神や美術の真髄を伝えている。   
岡倉天心は日本美術の価値を国内外の人々に知らしめ啓蒙する伝道師であった。

つづく

掲載日:平成31年3月4日
記事作成者:野村邦男
掲載責任者:深海なるみ

 四季に学ぶ

                          高校12期  野村 邦男

画像の説明

春は花夏ほととぎす秋は月
冬雪さえてすずしかりけり  
     
曹洞宗の開祖道元禅師の和歌に日本の四季が簡潔明瞭に詠まれている。
日本列島は南と北の地域によって差異はあるが概ね三か月ごとに春、夏、秋、冬の季節が
めぐってくる。四方を海に囲まれた国土には、常緑樹・落葉樹が織り成す森林、田んぼや
畑が広がる田園、山から湧き出る水量豊かな河川が無数にある。
そして四季がめぐることにより気候に寒暖があり、太陽の光と熱、雨、雪、露、霜などが
植物を育て、動物が生きることができる環境がつくられている。そして世界で最も多様な
生物が生息する豊かな風土をとなっている。
日本人は古代より四季に応じて農耕や漁業を行い、四季を更に細かく分けて二十四節気
七十二候の暦にそった生活、行事、祭事などを行ってきた。万葉集をはじめ和歌は季節の
草花や風物を主題として詠み継がれ、俳句は季節の言葉を季語として、独自の短詩の文芸
世界をつくりだしてきた。季節の移り変わりに応じた人々の自然観、生活感が歳時記としてまとめられ、5000を超える季語が収録され連綿と現代に受け継がれている。

拙宅の近くの里山には雑木林、竹林、野原、畑、小川があるので、季節の移り変わりを
身近に見たり感じたりすることができる。
あらゆる植物と動物が気温や日照の変化に応じて生命活動を行っていることがよくわかる。春には桜、夏には向日葵、秋には萩、冬には水仙が花をつける。春になると鶯が鳴き始め、初夏には燕や時鳥が飛びまわり、秋には鵙が梢の上で高鳴きし、冬は鴨が水辺に遊ぶ。蝶、蜂、蝉、甲虫、蜻蛉、蟋蟀などが季節と共に姿を現し小さな命を謳歌し、いつの間にか姿を消していく。こうした豊かな自然環境を護りたいという思いから、里山保全のボランティア活動を続けている。
この里山で四季折々に小学生の野外授業をしていると、児童たちの五感の働きに感心することが多い。児童たちは芽吹き、若葉青葉、紅葉、落葉と変化する木々の状景を
印象深く記憶に刻んでいる。鳥や虫の鳴き声にも敏感に耳を傾け、カタツムリ、シャクトリムシ、トカゲなどもすばやく見つける。
里山の自然環境の中にいると児童たちの興味と素朴な疑問は尽きることがない。
雑木林の緑色の木の葉が秋になるとどうして赤色や黄色に変わるのだろうか。
ツバメは何千キロも離れた遠い国からなぜ海を渡ってくることができるのだろうか。
気持の悪い毛虫や青虫がどうして綺麗なチョウチョに変身するのだろうか。
子供たちに刺激を受けて、私たち大人たちも、季節の推移と動植物の命の営みに対して
「なぜ」、「どうして」という好奇心と探究心をもつことが大切であると気付かされる。
一方、近年地球規模で気候が大きく狂いだし、日本特有の四季が暦の通りにならなく
なっている。これまでに経験したことが無いような猛暑、大型台風、集中豪雨、竜巻などが次々に襲い、地震も各地で発生して大きな災害が続発している。産業革命以降の化石燃料の大量消費による二酸化炭素の放出が地球温暖化を引き起こし、気流や海流に異常をきたし気候が狂う原因となっている。
日本においても戦後の急激な工業化と都市化の進展によって自然破壊が急速に進み、縄文・弥生時代以来数千年にわたり続いてきた緑豊かな自然環境が大幅に悪化している。
二十一世紀後半には自然の猛威によって日本列島に住む人間の生活環境が大きく変わり
危機的な状況になることが予測されている。
現代の物質文明にどっぷりと浸かった現代人は、快適性や利便性のある生活を際限なく
追い求め、結果として自ら自然破壊を進めている。現代に生きる人間は、自然界の警告に
謙虚に耳を傾け、自然環境を護り保全する心構えが必要であり、ライフスタイルを抑制の
効いたものにすることが必要となっている。

自然に親しみ四季に学ぶことにより、日本古来の豊かな自然環境と四季の正常な循環を
取り戻し、自然の恵みを享受することができるようにしたいものである。
一市井として微々たるものではあるが、四季に応じて畑でいろいろな野菜を作り自給自足し、電力は太陽光や風力などの再生可能な自然エネルギー事業者に契約を切り替え、自家用車はやめてできるだけ徒歩と公共交通を利用するように努めている。
季節の野菜、果物、魚介と少々のお酒をいただき、暑さ寒さを凌ぐ程度の衣服を着て、時には近くの里山で花見や月見を楽しむというような素朴な生活を送りたいと愚考している。
そして四季の折々に俳句という文芸世界で、句友たちと共に学び共に遊ぶことができれば
ありがたいと思っている。  

掲載日 平成31年2月24日
記事作成者 野村邦男
掲載責任者 深海なるみ(高15期)

平成30年度緑高12期同期会開催について

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平成30年の12期同期会は好天に恵まれた10月12日、横浜中華街の「重慶茶樓本店」にて37名(男子:26名、女子: 11名)が参加し開かれました。会は菅原の司会・進行のもと、峯嶋さんの「開会挨拶」で始まり、石井さんが「母校と牧陵会」の近況報告を行って、11月11日の「緑のフェスティバル」には皆んなで参加しようと呼びかけました。「物故者への哀悼の献杯」に続いて「開宴の乾杯」も藤田さんが担当しました。
 開宴し、卒業以来、同期のゴルフやハイキングの中心的役割を担い、ここ数年は、民謡の稽古に余念のなかった桃井さん、酸素ボンベ携帯での出席でしたが、この春に突然、発症した呼吸器系の病いの背景を説明してくれました。峯嶋さんに続き、同期で2人目の「瑞宝中綬章」を昨年受章した入戸野さんは受章の感想と福島からハマの住民に戻った近況をスピーチ。岸俊輔さんがシルバー向け川柳調の歌を得意のウクレレの調べにのせて披露、会場を埋めた後期高齢者の笑いを誘って大いに楽しませてくれました。
 満を持して最後に登場の松崎(章)さん,この日の為に練習を重ねたカントリーソング、「ジャンバラヤ」を熱唱し、後半のパートは岸さんとのデュエット、これが見事にハモッておりました。
「フリートーク…ちょっとお時間拝借」 のコーナーでは 最近、奥様を亡くされた心境を野田さんが、昨年の会で手を取り合って散歩する奥様の病いを語った萩本さん、入院されていた奥様の存在の有難さを語った小宮さんら、お三方から近況を伺いました。(尚、小宮さんの奥様は同期会の二ヶ月後に亡くなったとのことです。合掌。)
 中島さん音頭による「中締め」のあと、全員起立し、江川さんのリードで力強く校歌を歌い、何はともあれ、「クラス会それぞれ持病の専門医」たちの 喜寿の集いは無事お開きとなりました。
「写真撮影とプリント」を 藤田さん、今年も有難うございました。
 最後になりましたが、今年から喜寿・米寿の同期会にも牧陵会が追加支援金を支給して下さる由、石井参与から報告がありました。 誠に有難く、同期一同、謹んで牧陵会役員会に感謝申し上げます。

集合写真ダウンロード⇒

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平成30年10月吉日
高校12期卒業同期会 
報告者 菅原 裕明
掲載責任者:向井信一(高21期)

高齢者の愉しみ

                             ( 高12  峯嶋 利之 )
 高校12期はついに後期高齢者の仲間入りをした。いつかこんな日もくるかとは覚悟していたが、いざその時がきてみると昨日につづく今日で何かが急に変わるわけでもない。とはいえ、高校卒業から半世紀をこえた75歳の心身の衰えは隠しようがない。ところが高校時代の集まりに顔をだすと多感な思春期やストレス漬けの受験時代がすぐによみがえり青春真っただなかの若い日の自分にたちどころに還っていけるから不思議である。
 高校12期は同期会を毎年秋に開催している。12にちなんで開催日は陽気のよい10月の「12日」に固定している。この日を楽しみに50人をこえる連中が中華街にあつまってくる。会場では楽器を鳴らしたり、渋いのどを披露したりで終いにはワイワイ、ガヤガヤの賑やかさのうちにお開きとなる。幹事から毎年他界者の報告を聴くときはさすがに寂しい思いになる。最近も元気でクラチャンにもなるほどのゴルフの名手があっという間に逝ってしまい驚いている。
 それでも今年の5,6月にはそれなりにいくつかの愉しみがあった。6月はじめには恒例の牧陵会の総会があった。毎年一度の総会にはできるだけ顔を出すことにしている。元気な姿の諸先輩にお目にかかると自分もまだまだ頑張れるはずだと励まされる。とくに背筋がのびた姿勢のよい先輩はよい手本となっている。夕方の懇親会にもひきつづき参加した。今回は高校時代の受験勉強のお手本として遠くからながめるだけだった一年上級生と思いがけなく親しく話す機会をえた。50年余の時をへだてたあとのほぼ初対面にちかい出会いではあったがうちとけて屈託なく受験秘話などの昔話に話がはずんだのはやはり同窓会の大きな愉しみであった。また。この席では初代となる新任の女性高校長にもお目にかかれた。人工減少社会でこの国の成長を支えるには女性の活躍に期待するしかない。最近当校は女子高生に人気が高いときいており適任者をトップにむかえてさらに新機軸がうちだされるものと愉しみに待ちたいと思う。

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 また、最近では5月に村上春樹の新刊「騎士団長殺し(上・下)」(新潮社)、6月には亀山郁夫(東京外国語大学長)による新訳「カラマーゾフの兄弟(1,2,3,4,5エピローグ別巻)」(光文社文庫)を読んだ。いずれも面白く長編が苦にならなかった。
「騎士団長殺し」はウイーン留学時代にナチス高官暗殺未遂事件にかかわった日本人画家にからむ主人公の物語であり、

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「カラマーゾフの兄弟」は父親殺しを中心テーマに物語が展開する。両著とも物騒なテーマではあるがサスペンス風の展開についつい引き込まれて読み進んでしまった。これはもちろん両作家の奥深い人間観察に裏うちされた卓越したストーリーテラーとしての筋たての面白さに負うところが大きい。また、亀山教授の新訳は読みにくかった昔の翻訳とはちがい「いま、息をしている言葉」に心がけられており、これも読みやすく読書量をはかどらせる理由である。目もからだも衰えてきているなかひさしぶりに分厚い書物を読破した達成感が高山の登頂に成功したときのような悦びとなって心を満たしてくれる。後期高齢者も工夫次第でまだまだ愉しみは尽きない。 (以上、H27,7,5)

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掲載日・平成29年7月10日''